78年6月、雑誌の企画で対談した27歳の鶴田と24歳の藤波

 最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。

 元週刊ゴング編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。

「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)

 2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。

 それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。

 今回はその中でも人気のあった「藤波辰爾にとってのジャンボ鶴田」をご紹介する。

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夢のままに」終わった二人の戦い

 ジャンボ鶴田が2000年5月13日に49歳の若さで急逝してから23年もの歳月が流れた。

 長く続いたジャイアント馬場、アントニオ猪木のBI時代に風穴を開けたのは鶴田、藤波辰爾、長州力、天龍源一郎の“俺たちの時代”と呼ばれた世代だが、気付けば今も現役としてリングに上がっているのは藤波だけだ。

 振り返れば、鶴田と藤波はそれぞれの師匠の馬場と猪木のように常にファン、マスコミ関係者からライバルとして注目されたが、遂に一度も対戦することはなかった。

 藤波は「俺たちの時代と言われる中でも長州と天龍はある部分、一レスラーとして好きなことが言える立場だったと思うけど、自分とジャンボは……自分は猪木さん、ジャンボは馬場さんの下にいたんで、迂闊なこともできないし、慎重にならざるを得ない立場にいたから特別な思い入れがありますよ。ただ、そうした環境というか状況が、ふたりの戦いを夢のままに終わらせたということも言えると思いますね」と言う。

 対戦がなくてもふたりがライバルと見なされたのは、鶴田が馬場と同じくエリート、藤波が猪木と同じく雑草の叩き上げという背景(実は猪木も力道山にブラジルでスカウトされたエリートなのだが)がライバル・ストーリーとしてファンの心をくすぐったのだ。

 72年10月31日、鶴田は同年夏のミュンヘン五輪レスリングのグレコローマン100㎏以上級代表の肩書きを引っ提げて「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談の上、尊敬する馬場さんの会社を選びました」と、全日本プロレスに入団した。

 一方、藤波は70年6月16日、同郷の北沢幹之(魁勝司)を頼って下関市体育館に出向き、そのまま押しかけるような形で猪木の鞄持ちという形で16歳の若さで日本プロレスに入門している。

 藤波は78年1月23日、ニューヨークのマジソン・スクェア・ガーデンでカーロス・エストラーダを撃破してWWWFジュニア・ヘビー級王座を奪取。「24歳の日本の無名若手レスラーが世界の檜舞台でチャンピオンになった!」と話題になり、2月に凱旋帰国すると大ドラゴン・ブームが巻き起こったが、それまでには入門から8年以上、デビューから7年以上の時間を要した。

 鶴田が日の目を浴びるのは藤波より5年近くも早かった。

 全日本に入団後、翌73年3月に中央大学を卒業すると、日本で下積み生活を送ることなくテキサス州アマリロのファンク一家のもとに送られて現地でデビュー。わずか7ヵ月で凱旋帰国して10月9日の蔵前国技館で馬場のタッグパートナーに抜擢されてドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのインターナショナル・タッグ王座に60分3本勝負で挑戦。

 1対1から60分時間切れの熱闘をやってのけたが、テリーからジャーマン・スープレックス・ホールドで1本を自力で奪ったのである。この一戦により、鶴田はデビュー1年経たずに馬場に次ぐ全日本のナンバー2になった。

 ちなみに藤波は、この3日前の10月6日の後楽園ホールにおける鶴田の帰国第1戦=日本デビュー戦(vsムース・モロウスキー)を会場で観ている。日プロで同期だった馬場の付き人・佐藤昭雄に誘われて観戦に行っていたのだ。

「彼は新人とかそういう感じではなかった。相撲で言う幕下付け出しのような感じで見えていました。デビュー戦を観ても当然初登場に見えないのよ。もう何年もやっているかのような選手で、馬場さんの横にいても馬場さんのパートナーという感じでね。あれだけの身体を持っているから」(藤波)