最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。
元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。
「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)
2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。
それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。
第七回となる今回は、「鶴田のミュンヘン五輪」と「鶴田、長州力、谷津嘉章を比較、アマチュア時代最強は誰か」をお届けする。
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ミュンヘン五輪出場の栄光と挫折
東日本学生リーグ戦から1か月後の全日本選手権で、鶴田と「鶴田が勝てなかった男」磯貝秀頼はフリーとグレコの100㎏以上級で再び対戦。グレコは引き分けに終わり、総合成績としては鶴田が優勝。フリーは両者共にポイントが入らずに、両者警告の引き分けで同時優勝という形になった。
この結果、ミュンヘン五輪はフリー100㎏以上級に実績のある磯貝、グレコ100㎏以上級は全日本選手権優勝の鶴田が選ばれた。
1972年8月26日、ミュンヘン五輪開会式。鶴田は高校3年生の時に憧れた日本代表の赤いブレザーを着てミュンヘン・オリンピアシュタディオンに立った。最前列でバレーボールの大古誠司、森田淳悟、横田忠義のビッグスリー、バスケットボールの沼田宏文と談笑しながらの行進である。
日本のレスリング代表は鶴田、磯貝の他に中央大学レスリング部主将で鶴田と同期の鎌田誠(フリー90 ㎏級)、鶴田の師匠の佐々木(フリー82㎏級)、山本美憂・聖子姉妹と山本〝KID〞徳郁の父親の山本郁栄(グレコ57㎏級)、フリー57㎏級金の柳田英明、フリー52㎏金の加藤喜代美、フリー68㎏級銀の和田喜久夫、グレコ52㎏銀の平山紘一郎ら、総勢20人という大所帯だった。
ミュンヘン五輪のレスリングは3分3ラウンド。勝敗はフォール、判定による決着、警告失格などによる引き分け。大会はバッドマーク(減点)システムで行われ、バッドマークはフォール勝ち=0点、判定勝ち=1点、判定負け=3点、フォール負け=4点としてバッドマークが6点に達した選手は失格になるというものだった。
鶴田がエントリーしたグレコ100㎏以上級は12選手が参加した。その中で鶴田は1勝もできなかった。1回戦はハンガリー代表のヨセフ・チャタハリに警告負け、2回戦もユーゴスラビアのイストバン・セメレディに警告負けで持ち点が0になってしまった。
レスリングを始めてまだ3年の鶴田には技がなく、ただ前に出るだけだったために警告を取られてしまったのだ。また、国際大会は71年の世界選手権しか経験がなかっただけに、外国人選手相手の戦術が備わってなかった。
「鶴田は、日本で勝つには十分だったと思います。でも世界となるとまったく別です。今、グレコだと上限が130㎏、フリーが125㎏。それ以上はレスリング界では人間とみなされなくて出場できないんだけど、僕らの時の重量級は100kg以上級ですから何kgあってもいいんですね。だから僕らの時のヘビー級はレスリングの種類が全然違うんですよ。僕が112㎏ぐらいで出てたんですね計量するとみんなパスなんだけど、100㎏以上ないと駄目だから僕は何回も計量させられて。やっぱり日本人選手は世界に出ると小さかったんですよ。僕は身長が182cmぐらいで、一番重い時で117㎏、軽い時は106㎏ぐらいでしたから」と磯貝。
その磯貝は、フリー100㎏以上級で銅メダルに輝いたクリス・テイラー(AWAのバーン・ガニアにスカウトされて73年12月にプロレス・デビュー)に3回戦でフォール負けを喫して失格になった。
「結局、日本のレスリングはフリーなんだけど、世界に出ていくとフリーでもグレコみたいな試合になるんです。一本背負いと首投げでは勝てないですよ。反り投げができないと。あの200kg前後のクリス・テイラーがミュンヘンでは西ドイツの奴(のちにアントニオ猪木と格闘技戦をやったウィルフレッド・ディートリッヒ=グレコ100㎏以上級)に反り投げをやられて、金メダルのアレキサンダー・メドベジ(フリー100㎏以上級)に二枚蹴りでバーンと倒されたけど、日本人にはそんな力ないですよ。まず手が回らない(苦笑)。170kgの選手には勝ちましたけど、それは立ち上がりが遅いからであって、タックルなんかで行っても倒れないですよ」
その4年後の76年モントリオール五輪のフリー100㎏以上級で磯貝は6位に入賞したが、当時のレスリング重量級は世界で戦うレベルには達していなかった。それを鶴田も痛感したはずだ。