最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。

 元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。

「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)

 2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。

 それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。

 第三回となる今回は、「ジャンボ鶴田のスポーツ遍歴」より鶴田の兄が語る「相撲部屋事件」。そして同級生が語る「バスケットボール部時代」をご紹介する。

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朝日山部屋入門事件

 64年、鶴田は中学2年生の夏に大相撲の朝日山部屋に入門させられた。本人の意思ではなく、相撲好きの親戚に連れられて東京見物に行った時に体験入門させられ、自覚のないまま新弟子検査に合格してしまったから、「した」ではなく「させられた」なのだ。

 結局、鶴田は決心がつかずに夏休みが終わると、故郷に戻った。そのあたりの事情について兄・鶴田恒良はこう語る。

「本人は〝ちょっと夏休みに……〞ってことだったんじゃないかなと思うんだけど、新弟子検査に受かっちゃうと、なかなか辞めさせてくれなくて、それで叔父の甲斐錦に頼んで、間に入って話をしてもらって、帰してもらえたんです」

 叔父の甲斐錦は父・林の弟で、17歳の時に松ヶ根部屋に入門。38年5月場所で初土俵を踏み、50年1月場所から二所ノ関部屋に移って最高位は西前頭12枚目だった。鶴田が生まれた2か月後の51年5月場所後に30歳で引退している。

 もし、この時、鶴田が朝日山部屋に入門していたとしたら、のちに全日本プロレスで一緒になるサムソン・クツワダ( 四股名は二瀬海)の弟弟子になっていたし、二所ノ関部屋からはこの年の1月場所で天龍源一郎が初土俵を踏んでいるから、相撲で鶴龍対決が実現していたかもしれない。

 あるいは鶴田が本当に相撲志望で叔父の甲斐錦を通して入門を希望すれば、二所ノ関部屋所属になっていたはず。そうなると鶴田は天龍の弟弟子になっていたわけだ。

 さて、朝日山部屋入門を固辞して牧丘町に戻った鶴田を待っていたのは周囲の冷たい目だった。「相撲の稽古が辛くて逃げ帰ってきたらしい」「身体は大きくても根性なしだ」と、陰口を叩かれて、鶴田は憂鬱な日々を過ごしていた。

 そんな鶴田の希望の光になったのは、10月に開催された東京オリンピック。10月10日、テレビに映し出された開会式の赤いブレザーを身に着けた日本代表選手団の入場行進に釘付けになったという。

「オリンピックに出て、陰口を叩いていた人間を見返してやる!」

 相撲部屋事件の汚名を返上したかった鶴田に、オリンピック出場という新たな目標が生まれた。それが高校、大学でのバスケットボールにつながり、最終的にプロレスに到達することになるのだ。