最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。
元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。
「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)
2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。
それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。
第五回となる今回は、中央大学レスリング部時代の同期生で、当時の主将・鎌田誠氏が語る「ジャンボ鶴田がレスリング部への入部を拒絶された本当の理由」をお届けする。
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五輪出場のため個人競技へ
1969年4月、鶴田友美は4年後のミュンヘン五輪を目指してバスケットボールの名門・中央大学法学部政治学科に入学した。体育大学に進むことも考えたが、オリンピック後の進路を考えた上での判断だった。
体育大学を卒業した場合には体育教師になるのが一般的だが、それよりも職業の選択肢が広がると考えて、総合大学の法学部を選んだのである。
決して実家が裕福とは言えない鶴田は、建材業を営む親戚の家に住まわせてもらうことにした。部屋代と食費は掛からないが、その代わりに授業、バスケットボールの練習がない時は仕事の手伝いをすることになった。
大正13年(24年)に創部された中央大学バスケットボール部は、全日本大学バスケットボール選手権大会で67年に優勝。鶴田が入学する前年の68年には準優勝している強豪だ。そうした中、鶴田は1年生ながら全日本候補に選ばれて合宿に参加できた。しかし外国のチームとの対戦で世界の壁は想像より厚いことを痛感する。
「もしかしたら、日本はアジア地区予選を突破できないのではないか?」
そんな疑問が頭をもたげ、目標のミュンヘン五輪に出場するために方向転換する。それはバスケットボールをやめて、個人競技に転向することだった。
団体競技はチームプレーに左右されてしまう。それよりも個人の力で勝敗が決まる個人競技のほうが結果に納得がいくし、個人競技ならばアジア地区予選がなく、国内でいい成績を挙げればオリンピックに出場できる。
最初に考えたのは柔道だ。当時、柔道部には鶴田と同じ1年生に関川哲夫がいた。のちに大仁田厚のライバルとして悪名を轟かせるミスター・ポーゴである。ポーゴの話によると鶴田は「柔道部に入部したい」と連日のように押しかけたが、許されなかったという。
ただ、鶴田自身は後年、「選手層の厚い柔道は大学1年生から始めても間に合うものではないだろう」と選択肢から外したと言っている。
次に考えたボクシングは、ミュンヘン五輪には選手層の薄い重量級はエントリーされず、ミドル級までしか枠がないことで、これも選択肢から外れた。
そして最後に残ったのがレスリングである。46年に創部された中大レスリング部もバスケ部同様に名門だ。
中大レスリング部は、52年のヘルシンキ五輪フリー57㎏級で戦後初の日本人金メダリストになった石井庄八をはじめ、56年メルボルン五輪フリー62㎏級の笹原正三、フリー73㎏級の池田三男、64年東京五輪フリー63㎏級の渡辺長武、68年メキシコ五輪フリー52㎏級の中田茂男(出場時は卒業して自衛隊)と5人の金メダリストを輩出している。
柔術のグレイシー一族に4度も勝って、〝グレイシー・ハンター〞として総合格闘技ブームの頂点に立った桜庭和志は91年に同部の主将を務めているし、全日本プロレスの諏訪魔(諏訪間幸平)も同部出身だ。