相撲界とプロレス界が激しい鶴田争奪戦

 プロレスラーになるのを前提にレスリングを始め、ミュンヘン五輪代表の肩書きを得た鶴田だが、196㎝、100㎏を超える恵まれた身体はプロレス界だけでなく、相撲界からも注目され、高砂部屋がミュンヘン五輪の前から動いていた。同郷・山梨甲府出身の元小結・富士錦が部屋付親方(第14代尾上親方)を務めていたからだ。

 その他にも時津風部屋、二子山部屋、さらに2つの小部屋が勧誘していた。実家の生活費と親方株を保証するという破格の条件を提示してきた部屋もあったという。

「4年生の頃、まだオリンピックに行く前の時期に“桝席の招待状が来たから付き合ってくれ”って言われて相撲を観に行ったことがありますよ。どこの部屋だったかは憶えていませんけど」と言うのは鎌田だ。

 プロレス界では新日本プロレスのアントニオ猪木がいち早く目を付けていたし、相撲関係者から誘いの手が伸びていると聞きつけた日本プロレスの芳の里(長谷川淳三)社長は、相撲界に強いコネを持つ九州山(元出羽海部屋の力士で、当時は日プロ役員)に命じて獲得に向けて動いていた。

 鶴田はミュンヘン五輪終了後に九州山に誘われて日プロの後楽園ホール大会を視察に訪れたが、そこで鶴田に声を掛けたのが当時ベースボール・マガジン社の編集顧問を務めていた森岡理右である。

 森岡はスポーツタイムズのプロレス担当記者時代に馬場と親しくなり、当時は馬場のブレーンのひとりだった。また、スポーツタイムズ以前には東京タイムズの相撲担当記者として二所ノ関部屋の大鵬と仲良くなり、後年には天龍源一郎を全日本に入れている。つまり鶴龍の2人をスカウトした人物なのだ。

 鶴田獲得に関しては、森岡夫人の実兄が日本アマチュア・レスリング協会強化委員の野島明生だったことも大きかった。

 野島は早稲田大学レスリング部のグレコ重量級で活躍した人物で、当時はレスリング・マットやレスリング用品を扱うオリンピック・プロダクツという会社の社長を務め、全日本が旗揚げしてからは全日本の選手のトレーニングウェアなどを手掛けるようになる。そんな関係もあって野島も鶴田の背中を押した。

 森岡は2017年8月11日、老衰のため83歳で亡くなったが、生前、鶴田が全日本入団を決めた舞台裏を「鶴田に“これから野島の家に行って飯を食うんだけど、一緒に行かないか?”と誘って、すき焼きを食べさせながら“日プロに行っても先が見えているぞ”とか、猪木の悪口を吹きまくってやったんだよ(苦笑)。2回ぐらい飯を食わせたと思うけど、方向性を〝猪木じゃないよ、こっちだよ〟と全日本に向かせたわけだ(笑)」と話してくれた。

 森岡、野島に口説かれるなかで「自分のような大きい体の人間を育ててくれるのは馬場さん以外にいないだろうし、人間的にも頼り甲斐がありそうだ」と感じた鶴田は、日本アマチュア・レスリング協会の八田一朗会長の仲介で馬場と会うことを決意する。野島は八田会長の秘書的存在でもあった。

 鶴田が日本アマチュア・レスリング協会の八田一朗会長の仲介によってジャイアント馬場と初めて会ったのは1972年10月7日。それは日本テレビが全日本中継開始の前煽りとして夜8時から過去の名勝負のVTRと9月20日にハワイのホノルル・インターナショナル・センター(現在のニール・ブレイズデル・センター)で収録した馬場vsザ・シークを『ジャイアント馬場熱戦譜』という番組名で放映した日でもある。

 鶴田が全日本入りを決めたのは八田会長の自宅で馬場と初めて会った時、大きな靴の中で寝ていた小さな猫を「この猫は鶴田君みたいな顔をしているな」と抱き上げた時の馬場の笑顔に心を動かされたからだという有名なエピソードがあるが、兄の鶴田恒良は「猫だか何かが馬場さんの靴の中で寝ていたっていう話はちょっと聞いたことがあるし、〝相撲の廻しより、パンツの方がいいよな”って話はしていましたよ」と笑った。

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