横綱に昇進し土俵入りを披露する豊昇龍=2月1日、両国国技館(写真:共同通信社)
大相撲3月場所が9日に初日を迎えた。注目力士はやはり1月場所後に第74代横綱に昇進した豊昇龍だろう。昇進を決めた際、各マスコミは横綱制度についても取り上げていたが、やや的外れ的な内容が目立った。日本人なら誰でも知っている横綱という存在にもかかわらず、歴史的経緯は、ほとんど知られていない。では横綱制度はどのように生まれ、どのように横綱を選んできたのだろうか。
(長山 聡:大相撲ジャーナル元編集長)
横綱の誕生は第11代将軍・徳川家斉の時代
そもそも横綱制度はいつできたのか?
現在に繋がる横綱制度は相撲の家元・吉田司家の19世吉田追風が、谷風、小野川に横綱免許を与えたことを嚆矢とする。吉田司家は相撲の故実・礼式に精通していると認識され、当主は代々「吉田追風」を名乗っていた。
相撲史に初めて横綱が登場するのは、江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉の時代。寛政3年(1791)に家斉による大規模な上覧相撲(将軍が観戦する大相撲)が予定されていた。それに呼応するかのように、寛政元年(1789)11月場所7日目に、東西の最強力士の谷風と小野川に、吉田司家が横綱を伝達する式を土俵上で行った。
実質的には初代横綱の谷風
式の後、両力士は現在同様、太刀持ちと露払いを従えて1人土俵入りを披露。化粧まわしの上に、四手を垂らした純白の注連縄を締めた横綱土俵入りは、たちまち江戸中でも大評判となった。
当時はほかにも相撲の家元を名乗る者も存在したため、19世吉田追風が故実などを都合よく解釈し、新しい権威となる横綱を創出した可能性が高い。横綱1人土俵入りという派手なデモンストレーションで、吉田司家はライバルをしのぎ総司家とも言っていい存在となった。
とはいえ、江戸から明治にかけての横綱は1人土俵入りを行う資格免許に過ぎず、地位は大関だった。初めて横綱の文字が番付に掲載されたのは、明治23年(1890)年5月場所の西ノ海。同年の3月に横綱免許を受けたが、番付では後進の小錦(初代)に大関の正位を譲り、張り出されることになった。
これに西ノ海がクレームをつけたため、協会は番付に初めて横綱と明記して事態を収拾させたが、番付の横綱の文字は形式的なもので、依然地位は大関のままだった。
番付に初めて横綱の名が記載された明治23年5月場所


