勝率4割7分1厘の低レベル横綱も

 戦後初の横綱前田山は昭和24年(1949)10月、休場中にもかかわらず、来日中のサンフランシスコ・シールズとの日米野球を観戦したことが報じられ、詰め腹を切る形で引退を余儀なくされた。横綱勝率も4割7分1厘とかなりの低レベルだった。

 翌・昭和25年(1950)1月場所は横綱東富士・照国・羽黒山の3横綱が次々と途中休場。5日目には横綱不在となってしまった。マスコミや好角家から激しい非難を浴びた相撲協会は、急遽、場所中に緊急理事会を開いた。激論は次第にエスカレートしていき、「横綱も大関同様、2場所連続で負け越せば地位を下げる」と決定し、発表してしまった。

 ところがマスコミや世論は意外な反応を示した。「横綱はチャンピオンではない」「伝統ある横綱は品位と格式のあるもの、格下げとは何事か」と、協会の思惑とは裏腹に、横綱降格に反対の立場を取ったのである。慌てた協会は前言を翻し、1月場所後に横綱審議員会(以下横審)の設立を決めた。

 横綱が称号から地位へ変化しても、吉田司家が免許授与の権利を保持していたことは変わらなかったが、同時期、吉田司家は空襲で失った財産の経済再建中に民事裁判沙汰を引き起こしていた。この不祥事を機に相撲協会は、司家から権限を取り上げ、有識者を集めて横綱の昇進を委ねることにしたのである。

 当時この迷走のあおりを食ったのが大関千代の山だ。昭和25年1月場所に12勝3敗で賜杯を抱き、前の場所となる24年10月場所には新大関で13勝2敗のVを果たしていた。連続優勝だったが、横綱昇進は見送られた。以後、大関で連覇を果たしながら横綱昇進を見送られた例は皆無である。

 しかし横審は、昭和26年(1951)5月場所に千代の山が3回目の優勝を決めると、"待ってました”とばかりに横綱推挙を決めた。優勝の前の場所は8勝7敗と極端な不振だったが、連続優勝時の大関据え置きが考慮されたものと推察される。

 余震はまだ続いた。やや安定性に欠ける千代の山は、横綱に昇進後もあまり芳しい成績を挙げられず、昭和28年(1953)3月場所には2日目から4連敗を喫してしまう。苦悩した千代の山は「大関から再スタートさせてほしい」と前代未聞の横綱返上を相撲協会に申し入れた。

 それに対し協会は「横綱の地位返上など考えられない」と却下。「横綱降格」が否定されたばかりだったこともあり、横綱は不振に陥った場合は、引退しかないことを改めて強調したのである。