温情主義を一変させた双羽黒の廃業
横審が誕生したものの千代の山の例を見ても分かる通り、推挙基準がはっきりしてなかった。そこで現行の年6場所制がスタートした昭和33年(1958)の1月場所前に「大関で2場所連続優勝かそれに準ずる成績」という横綱昇進に関する内規を発表した。
この内規で横審が一番論議してきたことは、「準ずる」の解釈であった。内規制定以降の昭和期の横綱18人にうち、2場所連続優勝で昇進したのは大鵬、北の富士、琴桜のわずか3人。残りの15人は「準ずる」成績で横綱になったわけだが、朝潮、柏戸、玉の海、2代目若乃花、三重ノ海、双羽黒、大乃国の7人が直前2場所に優勝がない。
特に柏戸は、10勝、11勝、12勝(優勝同点=決定戦敗退)と直前3場所の成績は、優勝ゼロのわずか33勝。その昇進理由が「実力において、何ら(連続優勝を果たした)大鵬に劣るところはない」というもの。いかに拡大解釈されてきたのかがわかる。
ところが、協会も横審もなるべく多くの横綱を誕生させようという、こうした温情主義が、平成(1989年〜)以降は豹変した。
背景には横綱双羽黒の存在があった。優勝未経験で、最高位を極めた双羽黒だが、昭和末期に不祥事を起こして突如廃業。以後、横綱の昇進基準をより厳格化しようという機運が高まったからだ。

平成に入ると、旭富士から日馬富士まで、8人連続で連覇でしか昇進を許さなかった。
それ以降の鶴竜、稀勢の里、照ノ富士の3横綱は「準ずる」成績での昇進だが、直前2場所のうちどちらかには優勝を果たしており、なおかつ、昭和時代の「準ずる」成績よりかなりハイスコアだ。
横綱昇進のハードルが上がったため、昭和なら確実に横綱昇進を果たした成績でも数多くの見送り例が続出した。
大関止まりだった小錦や魁皇は、昭和期なら横綱昇進を果たしていた可能性が高い。小錦は史上初の外国人横綱の栄誉を逃したことになる。最終的には横綱には上り詰めたものの旭富士、武蔵丸、白鵬などは回り道を余儀なくされた。
最大の犠牲者は貴乃花だった。