アマチュアの技術をプロレスにアジャスト

 日本でプロレスの基礎を一通り学んでいた鶴田だが、ドリーに改めてグレコローマン・スタイルのテイクダウン、プロレスの基本技のヘッドロックなどを丁寧に教わった。さらに試合中に事故が起きないようにベーシックなレスリング・ムーブをひとつひとつ正しいやり方で確実にできるまで徹底的に叩き込まれた。

「ジャンボの場合はWWEでカート・アングルを教えたようにアマチュア・レスリングでできたことをどうやってプロレスにアジャストするかという工夫を教えた。

 アマチュア・レスリングとプロフェッショナル・レスリングは違うものだが、そのポイントを知っていると凄く役に立つ。

 プロフェッショナル・レスリング特有のムーブであるロープワークにしても、ロープに飛ばして跳ね返ってきたところに技を仕掛けるのはエキサイティングだし、エンターテインメントだと思う。

 我々は対戦相手とだけ戦っているのではなく、観ているファンとも戦っている。ファンにつまらないと思われたら、それはレスラーの負けだし、ファンを楽しませるエンターテインメント性も重要なんだ。

 歓声や、その日の売り上げチケット数がいろいろなことを教えてくれる。プロフェッショナル・レスリングは、ある意味ではファンがクリエイトしていると言ってもいいだろう。

 時代が変わった今現在の『ファンキング・コンサーヴァトリー』(現在、ドリーがフロリダ州オカラで主宰しているプロレス・スクール)では試合だけでなく、インタビューもビデオで撮って、翌日にそれを観ながらどういうところを直したらいいかもチェックしている。

 テレビジョンのカメラの位置を意識しながら試合をしなければいけないことも教えているんだ。まあ、ジャンボやスタンを教えていた70年代にはアマリロ・スポーツ・アリーナのリングで開場前の2時間を使ってベーシックなことを教えていたに過ぎないよ」(ドリー)

 そうしたドリーの考えのもと、鶴田はレスリングやサブミッションのスパーリングはもちろん、観客に見せるためのプロレス形式の練習試合をテリー相手に5分1セットで何回もやらされた。そして最終試験はアマリロ・スポーツ・アリーナでのテリーとの時間制限のない練習試合だ。

 もちろん試験官はシニア。アマリロ・テリトリーでファイトしていたマシオ駒の人間性を買って全日本プロレスの外国人選手の招聘窓口になり、馬場とも信頼関係を築いていたシニアだが、実は日本人のことは好きではなかった。

 第二次世界大戦の時、アメリカ海軍に属していたシニアはフィリピンに派遣されて日本軍と戦った過去があった。「親父ものちには親日派になったが、日本人に抱く悪感情が癒えるまでには長い時間が必要だった」と証言するのはテリーである。

 それだけに鶴田を見つめる目にも厳しいものがあったが、ドリーは言う。

「私は父に“トミー・ツルタは出来る男なんだ”とテリーとスパーリングをやらせた。

 父はジャンボがテリーをベリー・トゥ・ベリー(フロント・スープレックス)で投げたのを見た後、ジャンボの肩を叩いて、握手して……それから数々のチャンスを与えるようになった。

 ジャンボは最初からナチュラルにできる数少ない逸材だった。プロフェッショナル・レスリングにアジャストするグレコローマン・ムーブを活かすジャンボをトップレスラーともドンドン対戦させたんだ」

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