鶴田のデビュー第5戦は4月4日、テキサス州ラボックのフェアーパークにおけるレス・ソントン戦(引き分け)。12日間に5試合というのはアマリロ・テリトリーのサーキットからすると少ないが、サーキットにはレフェリーのファーバーの車に乗って同行。ファーバーと一緒だと会場に到着するのは他のレスラーより早く、すべての試合が終わるまで帰ることができない。必然的に全試合を観ることになった。
鶴田のコーチとなったドリーは「プロフェッショナル・レスラーは、対戦相手と戦っているだけでなく、観ているファンとも戦っている。ファンを楽しませるエンターテインメント性も重要。他のレスラーの試合を観て、観客の歓声を聞くことも大切だ」と、他のレスラーの試合を観させることでエンターテインメントとしてのプロレスの空気を鶴田に学ばせ、開場前のアリーナで弟のテリーとともにプロレスのイロハを教えた。
鶴田以外にもハンセン、テッド・デビアス、ティト・サンタナらを輩出したファンク道場と呼ばれるアマリロ・テリトリーの新人育成システムについてテリーは「俺たちのファミリーは他のアメリカのレスリング・スクールのように入会金、授業料を取って教えるのではなく、素質のある若者をスカウトして日本のドージョー(道場)のようなスタイルで育てた。シュート・ファイティングがない時代だったから、当時のレスリング・ビジネスは非常にシリアスで、真のタフガイじゃないと成功できない世界だったんだ。アマリロでは本当にタフガイしか使わなかったよ」と言っていたものだ。