かつてはトヨタと下請け企業との間に「絆」があった
「下請けいじめ批判」については、トヨタから厳しい価格での納入を押し付けられ、下請けの経営が成り立たないというものだ。これについては、買う側と納入する側で見方は変わってくるが、当時はトヨタの規模拡大に合わせて潤っている下請けが多かった。
研究論文の中には、トヨタは下請けに原価低減を要求して、たとえば部品1個の値段を10円下げると、5円分は下請けにインセンティブとして返し、次の投資の原資に充てるといった内容のものもあった。
そして、当時のトヨタと下請けの間には「絆」のようなものがあった。それを感じたのが今からちょうど27年前の1997年2月1日、愛知県刈谷市にあるアイシン刈谷工場で発生した火災への対応だった。
「プロポーショニングバルブ(PV)」と呼ばれる、自動車のブレーキの油圧を前輪後輪に振り分ける重要部品を生産していた工場が全焼、1カ月は全面的な操業停止に追い込まれると見られていたが、わずか数日で済んだ。米紙ウォールストリート・ジャーナルは、「驚異的な復旧」と題した記事を大きく取り上げた。
火事の直後、トヨタとアイシンは、体育館に部品メーカーを集めて代替生産の協力要請したものの、混乱状態の中では両社は具体的な指示はあまり出せなかった。体育館に集まったのは、トヨタからみて、アイシンの下にいる2次や3次の下請け企業だったが、発注書はなくても独自に判断して復旧に向けて動き始めた。
小さな無名の下請け企業が、自らの判断で動き、代替生産を行った。まさに「阿吽(あうん)の呼吸」で動いていた。サプライチェーンのトップが混乱状態で適切な指示を出さずとも、末端の会社が、トップの思うとおりに動いて一定の成果を出す。普段から、グループで目的意識や価値観を共有すると同時に実力も養っていないとできないことではないだろうか。
ところが、トヨタの下請けをいま取材で回ると、かつてのように次の目標に向けて活力がみなぎっているところが少なく感じる。「我々はトヨタがいないと生きていけないが、トヨタがいるから幸せにもなれない」といったような声さえ聞く。