法政に敗れ、引き上げる東大ナイン(写真:共同通信社)

 140km台後半のストレートを投げられるポテンシャルを持ちながら、大学卒業後、野球をやめて一般企業に就職する道を選んだ東大のエース松岡由機投手。そもそも彼はどうやって野球と学業を両立させ、東大野球部に辿り着いたのか。第2話では、松岡の野球人生における“エピソード0”を追う。(矢崎 良一:フリージャーナリスト)

【第1話】六大学野球でも名を馳せたMAX146kmの東大エースが野球をやめる理由
【第3話】体格に恵まれていない松岡は、なぜ150km近い球速を出せるようになったのか?
【第4話】通算成績「1勝14敗」よりも大切なこと、人間的成長につながった価値観の転換

 松岡由機はこれまでに二度、野球をやめている。正確に言えば、中断した期間がある。

 一度目は、中学受験に挑んだ小学校6年の時。早くから家族で話し合い、私立中学の受験を決めていた。進学塾に通い受験勉強に専念するため、多くの中学受験組がそうするように、野球をやめざるを得なかった。

 思いのほか、松岡はサバサバとしていた。

「その選択がもし今だったらすごく悩んだと思いますけど、その時はさほど苦しさを感じることもなかったですね。野球よりも勉強をしているほうが自分には合っている気がしたし、こっちのほうが得意分野という手応えが自分の中にありましたから」

 栃木県で生まれた松岡は、父親が転勤族だったことから、小学校1年の時に名古屋に引っ越している。ここで野球と出会う。野球部に入り、ピッチャーをやるようになった。もともとの負けず嫌いな性格もあり、マウンドに立って、速い球を投げて、打者を打ち取ることは快感だった。

 小学校5年の時に再び父の転勤で東京に転居する。そこでも地元の軟式野球チームに入部した。そして5年生いっぱいで退部している。松岡は言う。

「引っ越した先のチームの部員がみんなすごくうまくて。名古屋では自分が中心だったので、胸の奥に何か煮えきれない感情を持ちながらずっとやっていたんです。だから、いざやめるといっても、後ろ髪を引かれるものは何もなかったですね」

 駒場東邦は第1志望。最上位校の開成・麻布を狙うプランもあったが、「校風が合わない気がしたし、第一志望は確実に合格しておきたかったので」と言う。

 名古屋に住んでいた時に近所の6年生の先輩が駒場東邦を受験し合格、東京に越境入学した。そこで校名を知り、ずっと関心を持っていた。あとを追ったというわけではないが、この東京屈指の難関進学校に松岡も合格を果たす。