人は何に耐えかねて死を望むのか?

 実際に安楽死が合法化された国の医療現場では、安楽死へのハードルが低くなり続けているという。

 カナダでは、医師だけではなく看護師にも安楽死の実施が認められている。加えて、カナダをはじめとして安楽死が合法化されている国の中には、容認される対象を合法化した時点よりも拡大しているところもある。

 本来、終末期の苦しみから脱するための最終的な手段とみなされていた安楽死が、社会福祉の代替策になり始めている国もあるというわけだ。

 著者の児玉氏は、長年安楽死について各国の動きを見守ってきたうえで、自身の考えを次のように語っている。

この問題は、「あまりに苦しいから死にたいという人は死なせてあげてよいかどうか」「自分は一定の状態になったら死なせてほしいかどうか」といった、個々の人のレベルの議論で終わるわけにいかない、社会全体のありようまで変えてしまう大きく複雑な問題なのだという側面に、目を向けてもらえればと思う。

安楽死は社会福祉の代替策になり得るのか(写真:nimito/Shutterstock.com)
安楽死は社会福祉の代替策になり得るのか(写真:nimito/Shutterstock.com

安楽死の是非を論じる上で考えるべきこと

 安楽死を合法化した方がよいと論じる場合、「苦しんでいる個人」をどう定義すべきだろうか。日本で合法化を主張する人のなかには「死にたいほど苦しんでいる人を置き去りにしないために安楽死を合法化しよう」とする人もいるそうだ。一見すると善意からの言葉に聞こえるが、児玉氏はストップをかける。

「死にたい」と誰かが訴える時、その言葉を額面通りに安楽死の自己決定と受け止めるのではなく、なぜその人はそんなことを言うのか、まずはその人の語りに真摯に耳を傾けて、その主観的な苦しみのリアリティを理解しようと努めること。それを通じて「死にたい」という言葉の裏にある思い、その人が本当に求めているのは何かを知ろうとすること。そして寄り添いながら「ともに取り組む」こと。それこそが本来の緩和ケアのあるべき対応だと、ベルギーのフェルメールやカープラスは繰り返し主張していた。私たちの社会が「死にたいほど苦しいという人を置き去りにしない」ということもまた、苦しんでいる人にそのようにアプローチすることではないだろうか。

編集部注:フェルメールは緩和ケアチームで長く働き、緩和ケアの教育にも携わってきた看護師、カープラスはフランスとベルギーで緩和ケアに携わってきた医師