イギリスでは医療従事者などキーワーカーのストライキがしばしば起きる(写真:ロイター/アフロ)

 英国立統計局(ONS)が今年2月に発表したデータによると、昨年イギリスで、ストライキを含む労働争議によって、年間およそ250万日分の労働日数が失われた。この数字は1989年以来過去最多だという。

 英政府は7月にストライキ法を成立させ、ストライキ時に最低限のサービス維持を労使に義務付けた。保健、消防・救助、教育、運輸、原子力施設の閉鎖と放射性廃棄物・使用済み燃料の管理、出入国管理といった6つの分野がこの対象になる。

 アメリカでも、米俳優の労働組合や全米自動車労働組合などの大規模なストライキは記憶に新しい。このように、海外では自分の権利を主張する闘いが盛んに行われる。

 それに対して、日本では大規模なストはほとんど起きないが、日本の労働環境はそんなに豊かと言えるのだろうか。私たちは労働や対価と自分自身をいかに結び付けて自己を定義しているのか。『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』(KADOKAWA)を上梓した小説家・ライター・コラムニストのブレイディみかこ氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──「わたしはこういう仕事をして生きてきたということが書きたかったわけではない」「本当にあったことも若干混ざっていることは否定できないので、『小説』だけではなく、『私』という言葉も入れておいた」とあとがきに書かれています。「私労働小説 ザ・シット・ジョブ」という本書のタイトルの意味について教えてください。

ブレイディみかこ氏(以下、ブレイディ):私労働小説(しろうどうしょうせつ)、あるいは(わたくしろうどうしょうせつ)と呼んでいただいても構いませんが、これは「私小説」と「労働小説」を組み合わせて私が作った造語です。

 私小説は、近代日本文学の独自のジャンルだと言われています。当時の男性作家たちは、同じように文壇にいる作家たちを登場させて身内の話を書きました。つまり、現代のゴシップ記事に似た表現方法として私小説は始まりました。

 そこには恋愛の話も多く、たとえば、元祖私小説と言われる田山花袋の代表作『蒲団』(1907)があります。こういった古い私小説の中に、女性は男性作家の恋愛対象や妻という形で登場します。しかし、私の「私労働小説」には恋愛も蒲団も登場しません。女性が男性の客体ではなく、主体として自分を書くという姿勢です。

 同時に、この本は「労働小説」でもあります。

 今日、仕事について書いた小説は、俗に「お仕事小説」と呼ばれるようです。私はこの「仕事」に「お」を付けて「お仕事」と呼ぶ言い方にどこか違和感を覚えます。労働を「お仕事」と言い換えることで、どこか印象や響きを軽くしている。そこには皮肉やおちょくり、冷笑なども含まれているように感じます。

 あえて「お仕事」という言い方で、どこかニュアンスを薄めようとするのは、仕事や労働の底に何かヘビーなものが横たわっていて、それを直視することを避けようとしているのかもしれません。

 労働には自分の存在や本質に結び付いたヘビーな重たいものがあって、皆本当はその部分で傷ついたり、いろんなことを考えたりしている。だからこそ、あえて「労働小説」という古臭い言葉を今回使ってみようと考えました。

──作中やあとがきで、『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(日本語版 岩波書店 2020年)の著者であるアメリカの人類学者、デヴィッド・グレーバーに言及されています。