談志こそ、落語界の「貨幣」

 談志は、そのさまざまな名演によって、落語界の貨幣だったのです。実際、その「芝浜」は、いわゆる「ドル箱」と言われるものでした。

 談志は「日本一代演が利かない落語家」だったような気がします。他の落語家なら「代演」というピンチヒッターが、時としてあてがわれることがありますが、こと談志に関しては、それは想像できません。たとえば、談志の代わりに私が出ようものなら、私が客なら暴動ものです(笑)。

 いや、談志をはじめ、余人をもって代えがたい、他の追随を許さない性質のものを「貨幣」と呼ぶのならば、売れっ子とは貨幣であって、弟子たちにそんな存在になってほしいと願っていたのが談志でした。

 私が二つ目になったころでしょうか、談志を故郷に招いた時に打ち上げで盛り上がり、師匠による弟子の寸評が始まりました。一番弟子から順にほめていって、立川流創設以降の弟子の話になり、「志の輔は俺からポピュラリティを、談春は俺から格調を、志らくは俺の狂気を……」と続き、私の番になって、「お前は、そうだな、野心だけは認めてやる」というオチが待っていました。野心しか、ほめるところがなかったのです。

『落語で資本論』流に言うならば、「貨幣になろうとどんな手段でも使おうとしている」点だけが評価してもらえたようなものでしょうか。

 つまり、私は「本物になろうと野望に燃えるニセ札」だったのでしょう。

 あれから20年以上経ちますが、まだまだいまだに「ニセ札」ではないかと自身を恥じるのみです。ベースとなる落語も、談志の演出を自分なりにアレンジして、なんとか自分らしさを刻み込もうとしているだけではありますが、ともあれ、地道に貨幣になるべく寡兵のごとく踏ん張っています。

「貨幣(カネ)」に振り回される落語の登場人物同様、「落語界の貨幣(カネ=ドル箱)=談志」に振り回され続けている私です。もう当の本人はこの世にいないのに、です。いまはやりの「仮想通貨(暗号資産)」を完全に超越する純金のような師匠は、私のみならず弟子の心にいまだにキラキラ輝いているのです。あ、純金に対するフェティシズムみたいですよね(笑)。

「貨幣は生まれつき金や銀である」という『資本論』の中の言葉を噛みしめながら、彼我の差を埋めたいからこそこんな本をこれからも書き続けます。

的場昭弘(まとば・あきひろ)
日本を代表するマルクス研究者、哲学者。マルクス学、社会思想史専攻。1952年、宮崎県生まれ。元神奈川大学経済学部教授(2023年定年退職)。同大で副学長、国際センター所長などを歴任。

【的場教授の解説:「仮想通貨」】
 通貨はいずれも仮想通貨といえます。実際には信用を背景にして成り立っています。もとをたどれば手形で、一覧払い手形といいます。その手形を発行するのが中央銀行だから、信用してだれも割り引かないだけです。信用がなければ、だれもすぐに本位貨幣である金貨に変えます。こうした制度が確立したのは、比較的最近です。もちろん国の信用は、国家の権威ではなく、金を蓄蔵し、いつでも金で通貨を購入してくれるからでしかありません。それを準備金といいます。準備金がなくなれば、信用をたちまち失います。ここでいう仮想通貨は、最近のコンピュータ技術で一定の速度で発行されるクリプト通貨ですが、これは管理がないと不安定な通貨です。デジタル通貨を国家あるいは国際的に創造しようという動きが出ています。

【連載】
第1回:資本主義は「うなぎ」と同じ?どこに向かうか誰にも分からない
第2回:公衆便所でひと儲け!江戸っ子が考えたビジネスモデルに見る現代の企業
第3回:立川談志は落語界の「貨幣」だった?マルクスのような「しつこさ」で代替不能