東大デザインスクール案の落第
私も任官以来25年、学生からだと40年来、複数の立場で中から東大を見てきましたので、空気感はよく分かります。
今回のような新施策では「結局、東大が外れることはないだろう」という驕りが学内にあった可能性を否定できません。
今回、そういう慢心が見事に打ち破れらたとしたら、本当に日本のため、未来の学術のために望ましいカンフル注射になったと思うのです。
誤解のないように、藤井輝夫総長以下、東大側スタッフが手を抜いていたとかいうことではありません。
藤井総長は私とは元来同学年で、いろいろ配慮してもらったこともあり、感謝しています。
また、かつて彼が若手助教授だった頃、私たちが設立したTLO(技術ライセンシング・シンクタンク)「東大総研」として、藤井ベンチャーを全力で応援したこともありました。
そんな彼が総長という立場で舵取りをして取りまとめているはずの今回提案ですが、落とされてしまった。なぜ、ダメだったのか?
世界のトップランナーたちによる東大の「採点簿」は、ここのリンクの10ページを見ると記してあります。引用してみましょう。
通信簿①:特に、新たな全学的教育研究組織として、プロボスト直轄で「College/School of Design」を創設する計画は、分野横断・学際的なアプローチなど、大学全体の変革を駆動する構想としては高く評価できる。
東大は「カレッジ/スクール・オブ・デザイン」つまり東大デザインスクール案を「全学的教育研究組織」として「プロボスト」直轄で創設する、とぶち上げて玉砕した。
東大デザインスクール案では通用しなかった、ということです。
ここでプロボストとは、総長が大学の「経営」を統括するのに対して、大学の研究を率いるトップをプロボストと言っている。
誰がなるにしろ、東大型のプロボストで「デザインスクール」は、因襲的に作れば最初から失敗するのが見えています。
これは1999~2000年「文理融合に芸術も加えて学際融合でアート系制作系学生を育てる」と、今回より小規模にその種の組織「情報学環」を、映画評論家でもあった蓮実重彦総長のもとで立ち上げた当事者として、私自身、根拠をもって証言できます。
凡俗の手法であれば、必ず「情報学環」の二の舞を踏む。
はやい話、25年が経過しましたが、例えば工学系の先生たちは、アート系制作系の学生をどう指導したらよいのか、独自の価値をもつ博士課程の学位発給の審級、クライテリアを提出できていない。
学外学会で査読論文3本あれば、よしとする、といった学位の番人たる大学研究科としてはかなり自殺行為に近い慣習なども染みついてしまった・・・。
約24年間、かやの外に置かれてきた一教員として、あるいは原子分子のミクロの挙動から厳密に立ち上げ、音楽の前線で役立つ仕事を四半世紀来積み上げてきた一教授職として、この大味ぶりでは無理、とただちに判断がつく。
通信簿の続きを見てみましょう。