調整型没個性、護送船団方式の沈没

 東大案落第の通信簿の続きです。

通信簿②:他方、大学全体としての変革を求める本制度の趣旨に鑑みれば、研究力が国内でも高いポテンシャルを有する大学として、既存組織の変革に向けたスケール感やスピード感については必ずしも十分ではなく、工程の具体化と学内調整の加速・具体化が求められる。

 ここで書かれている「スケール感」とか「スピード感」とは何を意味しているか、この種の官僚作文に慣れていない人には、読解が困難かと思われるので、通訳してみます。

 スケール感とは、要するに、既存学部組織(既に様々なメリットの配分が出来上がっている「地主層」みたいなものを考えればいいでしょう)の既存の利害を温存し、どこからも文句が出ない「調整型」の寄り合い案になっていることを意味すると思えば理解しやすい。

「スケールを大きくしてみました」では、これへの対策の正解にはならない。

 ここでの正解は、「エッジのたった、世界に通用するイニシアティブが存在していない」スケールの小さな寄り合い所帯の折衷案に陥っていますよ、という指摘だと理解する必要がある。

 考えてみてください。第1次大戦後、世界のデザイン史を変えたドイツの「デザインスクール」バウハウスは、建築家ヴァルター・グロピウスという強烈な個性が指導し、工業デザインからアートまで、歴史上比類をみない先進的な活動を展開。

 ヨハンネス・イッテンヴァシリ―・カンディンスキーパウル・クレーといった高度な創作力と先鋭的な知性を具備する巨匠が火花をあげながら合作、やがて一部離反も引き起こす、劇的な展開があった。

 その波及力は今日に及び、例えば私のラボが故P・ブーレーズと始めた仕事もクレーのパラダイムに直結している。

 その程度、歴史を生き抜く力を持った「デザインスクール」の創始があった。

 あるいは明治20(1887)年、上野の森に創設された「東京美術学校」も、若き米国人経済学者アーネスト・フェノロサ(当時34歳)の合理的な経営方針のもと、フェノロサの学生であった岡倉覚三(天心、当時24歳)は20歳で現在の東京大学文学部を卒業、文部省音楽取調掛勤務を経て、師のフェノロサと(西南戦争後の財政難で失敗国家状態にあった日本で)(外資を導入する担保たり得る国宝などのリストアップから)東京美術学校の創設を準備、設立者、初代校長として強烈な個性を発揮、1期生の横山大観や六角紫水以下、世界に打ち出せる日本芸術の創始創造に邁進した経緯がありました。

 どうしてこういう経緯に通じたかというと、私自身34歳だった1999年、この種の経緯を調べ、東京藝術大学学長だった平山郁夫さんや、六角紫水の孫で芸大美術学部長なども務めた建築の六角鬼丈さんに応援してもらい、青雲の志をもって組織設立に尽力、極めてエッジのたったものになりました。

 ところが、「設立早々目障りだ。時間をかけて東大の中だけ、学内の学部間で調整して作り上げていくから、芸大生や慶應湘南藤沢、ICU(国際基督教大学)なども多数参加して学内的には大変目障りな、木曜午後のアート系制作系ゼミナールはやめるように。自主解散しろ、東大の中の和を乱すんじゃない」と石田英敬氏などに強要され、学内既存圧で研究室解体の憂き目にあった経験があるからです。

「通信簿」の言う「スピード感」の欠如とは、まさにこの種の性癖を指しているのにほかなりません。