いま東大で「全学横断」などとぶち上げるなら、必ず既存学部の有力者の顔を立てるといった「調整型」の配慮と、「広く学内から声を吸い上げる」として、実際には十数人程度、あまり多くない人数があらかじめ選ばれ、各部局に配慮の行き届いた「調整案」を上げて来るわけで、その調整に、スタッフは苦心し腐心し全力を注いでいる。

 そのファインプレーを私は一切否定しません。

 ただ、そのように学内調整すればするほど、国際的にエッジのたった「新しいデザイン原理」を「東大から」打ち立てることは困難になる。

 今回の「デザインスクール」に、MITメディアラボがぶち上げたような、新しいコンセプトがどの程度記されているか? その検証がすべてを物語ることでしょう。

 むろん東京大学の中にも、世界をリードするデザイン原理は存在しないわけではありません。たとえばJRなどの自動改札「Suica」で知られる山中俊治さんには確かな原理に基づく、世界でエッジを切るもの作りをリードしてきました。

 ただ、この3月で定年したところなので、現役として牽引するというには、日本の官僚制的に問題がある。

 私自身のラボも1原子1分子の置換で1ニューロンの発火が制御され、意識の下のレベルから脳と身体の応答を前提に音楽を展開するラボなど、海外のどこにも存在しませんので、パリでもミュンヘンでもニューヨークでもアムステルダムでも私自身の仕事で指導に当たります。

 そういう「エッジがたった仕事」が変に目立ってしまうと、むしろ学内「調整」でヤスリが掛けられてしまう。

 だれか一人が突出すると、それをやっかむ別の個人、あるいは別組織がいろいろなことをするのが、東京大学というより明治以来、日本型組織が罹患する慢性病になっている。

 北里柴三郎を追放し、慶応大学医学部が立ち上がった明治の東大医学部、そこからさらに外れた野口英世の昔ならずとも、一度は「Tron(トロン)」で世界を席巻した俊英、坂村健さんをついに定年までヒラ教授に留めたのが、いま上に記した「調整圧」の現実。

 1999年に私たちが作るはずだった「東京大学初のアートスクール」情報とシステム学域は、坂村教授・伊東助教授で発足しました。

 しかし、その後に何があったか。ここでは紙幅が尽きましたが、別の機会に記すこともあろうと思います。

 東京大学が、本当に世界に打って出る新しいスクール(別にデザインスクールでなくてもよい)を作りたいなら、総長がイニシアティブを発揮して、きちんと世界に通用するエッジのたったプリンシプル、独創性あるビィジョンを打ち出す必要があります。

 そして、そのような「エッジ」「独創性」を嫌うのが、明治以来の日本組織が延々と温存する「護送船団方式」の横並びにほかなりません。