そして昭和16年(1941年)陸軍大将東条英機を首班とした東条内閣が発足、日本は太平洋戦争に突入した。都会の巷で食料品が手に入るのはこの頃までのようだ。その後は物価についての記載もない。

戦場へ向かう兵士の為に“武運長久”を祈る寄せ書き。「立派に死んでこい」という意味だった(宮内庁提供)

 翌昭和17年(1942年)になると、アメリカ軍の本土空爆が始まり、どんどん物が無くなって「欲しがりません勝つまでは」という言葉が登場する。昭和18年(1943年)学徒出陣。昭和19年(1944年)神風特攻隊出撃、B29による本土空襲、学童疎開。昭和20年(1945年)東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎に原爆投下。そして戦争は終わった。

「グラマンなんか物干しざおで叩き落してやる」

 この戦争中の暗い時代のことを母はよく語っていた。おしゃれもしたい娘盛りの頃だ。よほど恨めしかったのだろう。

「そりゃあ天皇の“て”の字も言っちゃいけんよ。天皇や軍隊の悪口なんて口が裂けても言えん。特高(思想警察)が飛んできて牢屋に入れられて拷問される。学問のある大学出や高校出は日頃から目をつけられていたね。派手な格好も口紅もだめ。軟弱な恋愛の歌も禁止」

 父は戦争に行った一人だ。

「徴兵検査で甲種合格は当たり前。病弱で軍隊に入れん者は非国民扱い。『お前らはそれでも天皇陛下の赤子か‼』と罵倒されていたよ」

 まさにあの時代、全ての国民は天皇陛下の赤子であり、陛下のためなら「玉と砕けん」「一億国民総武装」が当たり前だったのだ。

 また、国内の新聞・ラジオなども政府のプロパガンダの重要な役目を担い、国民の士気を昂揚し続けた。戦争が終わって国民は初めてその噓の報道について知らされた。

「私らも真珠湾攻撃大勝利を祝う提灯行列に駆り出され、小旗を振りながらぞろぞろと歩いたね。ラジオからは勝った‼勝った‼また勝った‼という放送ばっかりが流れてきよった」と、母は言った。