ここで思うのは、報道を信じて死んでいった多くの人間のことだ。
戦局は報道とは真逆だ。昭和17年のミッドウェー海戦では虎の子の空母を4隻失い、西太平洋のガダルカナル島では守備隊が2万人死亡、ニューギニア戦線での地獄、1944年のビルマのインパール作戦では2万人以上が飢えやマラリアで死亡した。
政府は「鬼畜米英」「一億火の玉」「玉砕」と国民を煽り続けた。
母は言った。
「空襲が始まると私たちはバケツ消火訓練と竹槍訓練の毎日やった。そんなもんでB29に勝てるわけはないけど、近所の威勢のいい親父さんは、『グラマンなんか物干しざおで叩き落してやる‼』と息巻いていたとよ。その親父さんも空から落ちてきた焼夷弾が当たって死んでしまったやがね」
日本人も「天皇の戦争責任」について声高には触れず
もう最後は、戦局などという悠長な言葉ではとても表現できない日本列島総地獄の状況だった。海行かば、バンザイ突撃、神風特攻隊、人間魚雷回天、人間ロケット桜花。断末魔の狂気が生んだこれらの戦術で「天皇陛下万歳‼」を合言葉に、多くの若者が肉弾となって命を散らしていった。
そして、沖縄戦や東京大空襲、広島・長崎への原爆投下などでは、途方もない数の民間人が命を落とした。
1945年8月15日の暑い日、国民は様々な思いで昭和天皇の玉音放送を聴いたことだろう。多くの国民が涙を流し首を垂れて放送を聴いたという。
後に昭和天皇の戦争責任の有無については肯定論、否定論ともに主張されたが、少なくとも敗戦の時点で国民からの批判が天皇や軍部に向けられることはなかった。
戦前・戦中と天皇陛下は現人神だった。国民のはるか頭上の雲の上の存在だった。
昭和天皇が「人間宣言」をされたのは終戦の翌年、昭和21年の1月1日のことだ。
発せられた詔書のなかで昭和天皇は自らの神性を否定し、ひとりの人間となられた。
那須御用邸から東京へ戻られ、原宿駅宮廷ホームを降りられる裕仁天皇。現在はこのホームは廃止されている(写真:橋本 昇)
日本を先の戦争に向かわせたものとして、世論という要素も大きい。もう戦争に突入しなくては世論が収まらない、という状況になっていったという側面もあったのは確かだ。
しかし、戦争は決して人々を幸せにはしない。そのことを、先の戦争を知らない私たちが語り継いでいくことの大切さを改めて感じる8月15日だ。#戦争の記憶





