東京への慰安旅行で感染、京都に戻り相次ぎ死亡

 1917(大正7)年、地元の製糸会社の工場従業員116人が東京に慰安旅行し、多くが感染した。京都に戻ってきて発症、42人の工員らが死亡した。それを悼んだ工場長が翌1918(大正8)年に金銅仏を建立した。だが、第2次世界大戦時の金属供出の憂き目に遭い、現在の石仏は2代目である。

 この大仏の前では、毎年春にお釈迦様の誕生日を祝う花まつりが実施され、スペイン風邪の悲劇を伝承し続けている。

 全国を見渡せば、過去の大規模な疫病蔓延や自然災害の際には決まって、石碑が造られている。例えば数千人の犠牲者を出した1933(昭和8)年の昭和三陸大津波。その後には、岩手県宮古地区に教訓とするために石碑が造られた。

 石碑には「此処より下に家を建てるな」と刻まれ、集落の人はその言い伝えを忠実に守ったため、東日本大震災の際の被害は他の地域に比べ小さかったと言われている。

 一心寺の慰霊塔や丹後大仏もまた、「感染症は忘れた頃にやってくる。衛生管理には常に気を配れ」ということを後世に伝える「教訓」や、「メディア」としての“墓”でもある。

 前述の通り、私の寺の墓地で墓誌を閲覧してみたところ、スペイン風邪が流行していた1918(大正7)年から3年間に葬儀・納骨された事例が、前後年よりも多かった。

 そこで、知り合いの全国の寺院に、スペイン風邪蔓延時の葬式数をカウントしてもらうべく、調査表を渡して協力を願い出た。すると、興味深い結果が得られた。