大阪での第2波が猛烈だったことも記録

「大正八九年流行感冒病死者群霊」と刻まれた慰霊碑である。これは墓地の入り口にあり、ひと際大きな奥津城(神式の墓所)だったので目に留まったのだ。

 一心寺の慰霊碑は、1918(大正7)年〜1920(大正9)年に日本で大流行した「スペイン風邪」における犠牲者を弔うためのものだ。施主は大阪市内で薬問屋を営んでいた薬剤師・小西久兵衛となっている。医療従事者のひとりとして、人々の病状回復を願って当時のクスリを処方した。

 しかし、久兵衛の願いはかなわず、彼は多くの死者が出たことを無念に思ったのかもしれない。そして、後世の人に疫病の怖さを忘れないでほしいという気持ちを込めて、この碑を建立したのだろう。

一心寺にあるスペイン風邪の慰霊碑

 厚生労働省によれば、スペイン風邪は全世界で5億人以上の感染者を出し、死亡者5000万人〜1億人という途方もないパンデミックになった。

 日本でも約2500万人が感染し、約38万人以上が死亡している。わが国では1918(大正7)年8月下旬から感染が広まり(第1波)、いったんは下火になるも、1919(大正8)年秋から翌1920(大正9)年にかけて第2波が押し寄せたとされている。

 被害は全国各地に及んだが、特に東京府や兵庫県で多かったとの記録がある。一心寺の慰霊碑には「大正八年、九年」と刻まれている。そのことは、大阪では第2波が、より強力なものであったことをほのめかしている。大阪全域では、47万人以上の感染者と1万1000人以上の死者を出している。

 スペイン風邪における慰霊碑建立の例は、一心寺だけではない。丹後半島の京都府伊根町にある「丹後大仏(筒川大仏)」もまた、スペイン風邪の犠牲者を弔うために造立された慰霊碑(墓)だ。丹後大仏は台座を入れると4mの大きさである。

スペイン風邪の犠牲者を弔う丹後大仏