ロシアの工場を二束三文で売り払った
数年前、パンの消費が減りはじめていることに気づき、この会社はイーストを他に利用できないかと考えてバイオビジネスにも進出していた。バイオテクノロジーの研究開発(R&D)部門も持っている。侵攻が始まったとき、攻撃のターゲットになる危険性があったので、まずは会社のウェブサイトを閉じた。そして密かに軍隊に寄付した。1年に1回春に、イーストのひとつのブランドの売上の2割にあたる金額を軍隊に寄付する、と発表して、400万〜500万フリヴニャを寄付している。
侵攻が始まる1年前から、新しい工場を建てるために建設費の半分を借り入れた。侵攻後、数週間は工事が止まった。当初は2022年夏にオープンする計画だったので、3月半ばには工事再開を決めた。工事を止める意味がないと思ったのだ。ウクライナの将来を強く信じているし、それが会社の方針でもあるので続けることにしたという。2023年2月末にオープンすることになり、国外の関係者を招待したが、やはり戦争のため誰も来なかった。それでも無事に操業を開始した。
新しい工場で作っているものは2つある。1つは家畜用のサプリメントだ。パンの消費が減少傾向にあるなかで畜産業に目を向け、イーストから鶏や豚、牛が自然に体重を増やせるサプリメントを作った。今では国内だけでなく、24カ国に輸出している。アジアにも販売網を広げる計画で、日本では北海道の酪農家に話を持っていこうと考えている。
もう1つの商品は調味料で、イースト由来でうま味を自然に引き出す。最初の宣伝用の商品は国外に送った。2022年秋には、パリで侵攻後初の国外展示会を開催した。そこでは「ウクライナだから関わりたくない」という反応はなく、逆に「ウクライナ製」というブランドがプラスに働いた。もちろん、ブランド性だけでは長続きしないから、商品の質がよくなければダメだ。ヨーロッパでプロバイオティクスのイーストと、イーストでできた家畜用サプリメントを売るためには許可が必要で、それはすでに取得してあった。新しい施設を建設するための借金は予定どおりに返済している。400人の従業員には給料も払いつづけていて、退職者は1人もいない。
ただ、空襲警報によって仕事の効率は落ちる。イーストは空気と接触したら発酵するので、時間どおりにパッケージ化しなければならない。警報が出るとシェルターへ避難しないといけないので、それができないときもある。だがこの1年間、売上もEBITDA(利払い前・税引き前利益、減価償却費の総和)も伸びた。
実はこの会社はロシアにも工場があった。だが、2015年にカナダの企業と共同で出資した会社に譲った。2022年3月10日には、カナダの合弁先に残りの持ち分を100ドル程度の値段で売った。そのような嫌な資産を持ってはならないと思ったそうだ。合弁先からは、今後5年間の利益の半分はあなたたちが好きなようにしていいと言われたというが、とにかく手放したかったのだという。
この経営者の子どもは国外にいる。時々会いに行くし、遊びに来ることもあるという。この状況下でビジネスをするのはどんな感じかと尋ねると、「もう慣れた」という返事が来る。ミサイルがどちらから飛んできているか区別できるようになった。ベラルーシから飛んでくるドローンと、カスピ海から飛んでくる危険物は、音で区別できるそうだ。
今はどこから元気をもらっているのかと尋ねると、毎朝7時からジムやプールでパーソナルトレーナーと運動しているので、そこから元気をもらえるのだという。家にもジムがあるのになぜ外に行くのかを尋ねると、シェルターとして使っているからと笑いながら答える。1人で運動していてもつまらないとも言っていた。
一番大変だったのは、停電でインターネットが落ちたときだった。情報が入らないときは本当に不安になる。電池式のラジオを買って少し安心したという。最初の数カ月間は読書や映画鑑賞も全くできなかったようだが、今はネットフリックスで映画も観ている。
侵攻後、初めて国外に出たときに、海岸沿いの喫茶店でリラックスして微笑んでお酒を飲んでいる人を見たときにとてもショックを受けた。辛かった。なぜ自分の国は苦しい目に遭わなければならないのかと問いつづけた。
ある男性の従業員は、最初の9カ月間は休みは要らないと言って、休暇なしで働いた。最初に連休をもらって休んだのはクリスマスだったかもしれない。「アドレナリンで走っている」ような状態だとわかっているので、特に感情を表に出さない彼のことを心配しているという。