「空虚な中心」の周りでべらべら話す関係者たち

 この映画のクライマックスは、長年連れ添った愛犬「マル」の死である。弱々しく歩く「マル」の姿は涙を誘う。ここは良いシーンになりかけていた。「マル」の死にむせび泣く文在寅を見たいところである。「人間・文在寅」を描く絶好の機会だったと思う。しかし、「マル」の死への文在寅のコメントはなんと、SNSからの引用で済ませてしまう。「おい、インタビュアー、何やってるんだよ!」と思ってしまった。「こんなチャンス逃すインタビュアーいるかよ、聞けよ!」と唇を噛んだ。

 これは冗談抜きに、「マル」の死にむせび泣く文在寅のシーンがあれば、ましな映画になったと思う。そのチャンスをみすみす逃した製作陣は、ドキュメンタリーの作り手としてはダメだと思った。

 そして、「マル」の死に続くシーンで僕は思わず言葉を失った。なんと、元大統領・盧武鉉の葬儀のシーンが挟み込まれたのである。僕は思わず「え?」と声を上げそうになった。犬と人間の死に上下をつけるつもりは毛頭ない。しかし、愛犬の死と盧武鉉の死を並べて見せてしまうのは、いくらなんでもドキュメンタリーの見せ方として悪手ではないだろうか。あまりにも安易なつなぎ方というか。

 盧武鉉の死は文在寅にとっては、それこそ政治人生を根本から変えてしまうほどの契機となったはずだ。それを愛犬「マル」の死のあとに繋げてしまうのは、ドキュメンタリー映画としてあまりに稚拙な編集ではないか。

 映画は最後の20分ほどで、駆け足で文在寅の功績を振り返って終わる。取ってつけたような演出だ。それにしても、なんでこんなに文在寅自身のインタビュー映像は少なく、関係者ばっかりなんだろう?

 僕の推測はこうである。この映画は文在寅だけをフィーチャーするために作られたのではない。というのも、いくら文在寅をフィーチャーして人気を獲得しても、多選が禁止されている韓国ではもう二度と大統領にはなれないし、政治的には「終わった人」である。悲しいかな、それが現実だ。

 では、なぜ作られたか。