孤立無援のラバウルを死守

 蘭印作戦の完了後、次に今村は第八方面軍司令官として、激戦地である南方のラバウルへと赴任します。

 着任直後より今村は「ラバウルは米軍によって早晩補給線が絶たれ孤立する」と読み、籠城戦に耐えられる態勢の構築に着手します。防空壕などの防御陣地の構築はもちろんのこと、食料を自給自足できるよう自ら畑を耕したほか、武器弾薬を生産する工場まで構築するほどの徹底ぶりでした。

 その後、今村の読み通りにラバウルは補給線が絶たれたものの、今村が用意しておいた備えもあり、補給がなくても持ちこたえ続けました。

 米軍もその防衛の堅固さからラバウル攻略をあきらめ、封鎖しながら迂回し、ほかの拠点を落としていくという方針を採りました。その結果、ラバウルは1945年の終戦時まで持ちこたえ続けることに成功しました。

 結果論ではあるものの、今村の冷静な決断により、現地将兵の多くの命が救われたとみられています。

 なお玉音放送後、今村は兵士たちに「諸君らからなんとしても日本に帰還させる。だから安心してほしい」と訓示したとされています。当時ラバウルにいた水木しげるはこれを聞いて「なんとなく、生きて帰れるような気がした」と述べています。