日本本土より遠く離れたニューブリテン島のラバウルで、孤立しながらも終戦まで防衛し続けた今村均(いまむら・ひとし、1886~1968年)も、そうした責任を全うした人物の一人です。
一般高校から陸軍士官学校へ
今村均は1886年、宮城県仙台区(現在の仙台市の中心部)で生まれました。父親は裁判官でした。新発田中学(現・新潟県立新発田高等学校)を首席で卒業し旧制一高への進学を目指しますが、東京で受験勉強をしていた頃、一家の大黒柱である父親が急逝する不幸に見舞われます。
この際、陸軍将校の娘であった母親から陸軍士官学校への進学を勧められました。進学先に悩んだ今村でしたが、ものの試しに天皇閲兵式を訪れてみたところ、初めて目にした明治天皇の姿を見て感激し、その足で陸軍士官学校への願書を出したそうです。
なお第2次大戦期における他の多くの陸軍幹部たちと違い、今村は陸軍幼年学校を経ず、一般高校経由で陸軍士官学校に入学しています。こうしたキャリアは硫黄島の戦いで著名な栗林忠道(くりばやし・ただみち、1891~1945年)とも共通しており、そうした一般高校経由のキャリアだったからこそ両者が実戦において合理的かつ柔軟な軍略を採り得たとの指摘も見られます。