(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト)

 今年(2022年)4月から5月にかけ、筆者は上海市全域で行われた都市封鎖に巻き込まれる形で、2カ月にも及ぶ軟禁生活を送る羽目となりました。この間、買い物はおろか外出すらほぼままならず、自由のない生活はかくも辛いものかと、神経をすり減らす毎日を送りました。

 そんな監獄のような日々において、筆者は、ある旧陸軍軍人の活躍を何度となく思い起こしていました。その軍人とは、義和団事件(1900年)に際し、北京で約2カ月間にも及ぶ籠城戦を戦い抜いた柴五郎(しば・ごろう、1860~1945年)です。

戊辰戦争で故郷と家族を失う

 柴五郎はペリーの来航(1853年)から7年後の1860年、会津藩の上級藩士である柴家にて、その「五郎」という名の通り5番目の男児として生まれます。子供の頃は内気で臆病な少年であり、なぜかお坊さんなどハゲ頭の人を見ると怖がって泣き出していたと、本人が後年回想しています。

 柴五郎が8歳になる頃、戊辰戦争の舞台は東北地方へと移り、故郷である会津(現福島県会津若松市)が戦場となります(会津戦争)。この開戦の際、柴五郎は親戚の家に預けられていたため難を逃れます。しかし、会津城下に残っていた祖母、母、姉、そしてわずか7歳だった妹までもが自決しており、幼くして故郷とともに多くの家族を失いました。

 戦後、柴五郎は生き残った父や兄らと合流し、会津藩の移封(いほう)先である斗南藩(現青森県むつ市)に移住します。