建長寺 写真/フォトライブラリー

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

第2世代の義時と第3世代の泰時

 僕は、歴史を読み解くとき、年代と世代との関係をけっこう気にします。

 たとえば、寛永14年(1637)に起きた島原の乱。この戦いでは、原城に籠城した一揆軍が頑強に抵抗して、幕府の大軍を苦しめます。一揆軍が善戦したのは、戦国時代の最末期に兵士として戦った経験のある者が、たくさんいたからです。

原城にある天草四郎像 写真/フォトライブラリー

 仮に、関ヶ原合戦のときに20才だった者なら、島原の乱では57才。この世代の人たちは、実戦経験が豊富だったわけですが、島原の乱以降は少しずつ世を去ってゆくことになります。

 ちなみに、島原の乱に20才で参加した者は、元禄元年(1688)には70才を過ぎている計算ですから、元禄年間ともなると、実戦経験のある人はもうほとんど残っていなかったことになります。こう考えてくると、「戦争を知らない世代」が中心となることによって、泰平の世が実現していったことがわかります。

 同じような現象は、鎌倉時代にもあてはまりそうです。この解説の前々回で、北条時政と義時とのジェネレーションギャップの話を書きました。このジェネレーションギャップ問題は、義時と泰時との間にも当てはまるのです。つまり…

 伊豆の田舎武士として生まれ育ったため、権力を持てあましがちな時政を鎌倉第1世代とすると、鎌倉幕府の成立過程が大人への成長過程に重なる義時は第2世代。これに対して、第3世代の泰時は、最初から鎌倉生まれ&鎌倉育ちで、地方武士としての生活体験がありません。都会っ子世代、というわけです。

北条泰時

 それから、弟として義時をよく助けた時房は、義時より10才以上年下です。皆さん、ドラマの最初の頃を覚えてますか? 政子・義時・実衣の下に、小さな弟や妹が何人かいました。そのうちの男の子が時房で、女の子が畠山重忠と稲毛重成の妻となりました。

 時房は、年齢差だけを考えたら、第2.5世代ということになりそうです。でも、頼朝が鎌倉入りしたときはまだ5才くらいなので、伊豆での暮らしはおぼろげながらにしか覚えていないでしょう。鎌倉育ちという意味では、時房は義時よりは泰時に近い感覚を持っていたと思います。

 都会っ子世代の泰時や時房も、もちろん武士ですから、ひととおりの武芸は仕込まれて育ちます。でも一方で、読み書きや蹴鞠といった文化的環境が、最初から身の回りに存在していた世代でもあります。

泰時が、妻の母親の供養のために建てた常楽寺 写真/フォトライブラリー

 まったく同じことは、北条家以外の御家人たちにも当てはまります。たとえば、和田義盛。義盛本人は、三浦半島で地ばえの武士として育ち、衣笠城の落城や房総への逃避行、平家との戦いを経験してきました。けれども息子や甥っ子たちとなると、最初から「幕府ありき」の世の中で育っています。泰時に付き従っている鶴丸も、同じですね。

 彼ら第3世代の若者たちは、北条時政や義時、あるいは和田義盛といった人たちとは、どうしても感じ方や考え方が違ってきます。今『鎌倉殿の13人』で描かれているのは、第3世代の若者たちが次第に台頭し、第2世代とのまでジェネレーションギャップが生じつつある時期、といえるでしょう。

 

※歴史における世代の問題に興味のある方は、拙著『戦国武将の現場感覚』(KAWADE夢文庫)をご一読下さい。「武将たちの生きざまのリアル」「合戦と武器のリアル」「天下統一をめぐるリアル」築城と攻城のリアル」など、戦国時代を武将たちの現場感覚、という視点で読み解いた、肩の凝らない一冊です。