ほどなく、国を代表する碩学の収容所送りは、むしろオランダ国内の反発を買う可能性が高かったことから釈放されますが、事実上自宅軟禁の状態で、1945年2月に逝去。
翌3月にはよく知られたアンネ・フランク姉妹が逝去し、4月には実質的なオランダ解放、プーチンが「戦勝」お祭り騒ぎを捏造したがった1945年5月8日~9日、ドイツは降伏しましたが、ホイジンガはこれを見届けることができませんでした。
そんな戦争の色濃い1938年、ホイジンガは人間の本質を「遊び」に見出す「ホモ・ルーデンス」という主著を発表、現在に至るまで絶大な影響を与えています。
ちなみに歴史家としてのホイジンガの主著「中世の秋」(1919)は、中世キリスト教世界において「真面目」と「おふざけ」がごっちゃになった状態において、卑猥な隠語や言葉遊びなどが真剣な遊戯として貴族文化の本質をなすことを示すものでした。
ここで、全く個人的な思い出ですが1981年、米国ロナルド・レーガン政権がSDI構想などタカ派な政策を打ち出していた頃、筆者は多感な高校2年生でした。
世界史の先生(真崎駒男氏)がこの「中世の秋」を私に貸しくれたのですが、当時はその真意を全く理解できませんでした。
戦争に対しては、真顔ではなく、真剣な笑顔で立ち向かう必要がある、とご自身も戦争で人生を台無しにされた恩師はお伝えになりたかったのだと思います。
「卑猥な表現に託された真意」を問う、実にのどかな「中世の秋」は1919年、凄まじいスペイン風邪の猛威で第1次大戦の継続が困難という、辛酸を極めた戦争状態の中で記されたことに注意しておきましょう。
ちなみにホイジンガとほぼ同じ時代を生きた日本の小説家・戯作者、泉鏡花(1873-1939)の「天守物語」(1917)も、第1次世界大戦中、ロシア革命と同年に発表されています。
戦争のど真ん中で、妖怪の姫の腰元たちが朝露をエサに蝶を釣ってみたり、戦に血道を上げる連中を「バカめら」と呵々大笑したりする。
実はこの作品、大変な胆力の戯曲で、当然のごとく生前(戦間期と戦時中を生きて鏡花は亡くなりました)には一切上演されませんでした。
鏡花の没後というより第2次世界大戦後、サンフランシスコ平和条約でGHQが去った1951年になって初めて、実際の舞台に懸かっています。
これらは皆、冷戦後期に、当時なら徴兵される年代であった私が深く影響され、自分の音楽を確立する糧になった作品であり思想にほかなりません。