映画「レッド・サン」に出演した三船敏郎(写真:Everett Collection/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

※本稿は『定年後に見たい映画130本』(勢古浩爾著、平凡社新書)より一部抜粋し、加筆したものです。

 黒澤明が晩年、時代劇が撮れなくなったと歎いていた。侍の面構えをしてる俳優がどこにもいねえじゃねえか、ということだったようである。そりゃあまあ三船敏郎や志村喬、仲代達矢や三國連太郎、中谷一郎クラスがいなくなった、ということなら、そのとおりである。佐分利信のような重厚な役者や、藤原鎌足のような軽妙な役者もいなくなったし、山本麟一のような岩のような役者もいない。

 日本の真珠湾攻撃を描く日米共同合作の『トラ、トラ、トラ!』の日本側の監督に決まったとき、黒澤は軍人役に俳優ではなく、ズブの素人の企業経営者を起用しようとした。そのことが監督降板の一因にもなったようだが、黒澤にいわせれば、これまた軍人面した役者がいねえじゃねえか、ということだったのかもしれない(いかにも俳優然とした役者では、もはやリアリティがない、ということもあったのだろう)。

侍の顔をした俳優がいないことより

 しかしわたしの考えでは、日本の男は、俳優にかぎらず、ほぼ全員ちょんまげが似合うのである。たしかに中年以上の癖のある俳優は絶対数が少なくなったけれど、ヒップホップ風の格好をしてラップとかを歌い、アメリカ人になったつもりの若者でも、髪型をちょんまげにして、袴を履かせれば、そこそこの侍役にはなれるのである。

 貫禄のある武士は無理かもしれない。だが、武士にもいろいろある。全員が猛々しい侍ばかりではない。羽生結弦みたいな殿様もありうるのだ。実際、会津の松平容保のような線の細そうな殿様もいたのだから。現在のNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見れば一目瞭然。全員がなんとかサマになっているのだ(ただ『居眠り磐音』」の松坂桃李は似合ってなかったなあ。あれはカツラの作りが悪いのか)。

 たしかに日本人全体が子ども顔になった。しかし今問題なのは、侍の顔をした俳優がいないということよりも、時代劇は人気がないということだろう。最近の映画で記憶に残っているのは『殿、利息でござる』や『散り椿』くらいである。この2作はいい映画だったが、はたして興行的に成功したのか。そもそも時代劇が少ないのである。

 アメリカで西部劇が激減したように(しかし時々、タランティーノ監督の『ジャンゴ 繫がれざる者』のように、傑作が現れる)、時代劇は文字通り時代遅れなのか。それに客を呼べる時代劇俳優は今では岡田准一か役所広司くらいなものである。衣装や小道具類にも金がかかる。さらにいまではロケ地を探すのも一苦労であろう。時代劇を作るには不利な条件がそろっているのである。

 けれど、時代劇は少なくなったが、時代小説はいまでも人気があるのである。男の作家は今村翔吾という新鋭が出てきているが、女性作家も次々と人気作家が出ている。ただその人気が、時代劇映画に結びついていない。