近代化の幕開けとなった黒船来航(提供:Glasshouse Images/アフロ)

(岡 信太郎:司法書士、合気道家、坂本龍馬研究家)

“龍馬は、実は何もしていなかった!”

 これは、思い出したように掘り起こされる龍馬不要論です。数年前には、教科書から龍馬が消えると話題になったこともありました。ただ、一般社団法人全国龍馬社中に属する者として、最年少で龍馬会の会長になった者として、この手の論評にはいつも疑問を抱かざるを得ません。

 いずれにしても、その方面で龍馬を考察したところで、それこそ何も得るものがないのではないでしょうか。何も知らないまま、何も学びがないまま、まるで三流週刊誌を斜め読みするかのように時間の浪費に終始してしまうだけです。

 政局が混迷を極めた1867(慶応三)年11月。龍馬は危険な京都に残り、暗殺されるその日まで、次の政権構想実現に向け活動していました。「修羅の道であろうが極楽の道であろうが」(1867年11月11日 林謙三宛て、龍馬の手紙より抜粋)と、まさに命を賭して日本の近代化のために働いていた事実を軽視すべきではありません。

 とはいえ、当の龍馬は、何もしなかったと言われようが、消されようとされようが、全く気にもかけないでしょう。

「もっとでっかいことに意地を張らんといかんぜよ」と彼の声が聞こえてきそうです。

 その龍馬が土佐を脱藩したのが、今からちょうど160年前。そう、今年は龍馬脱藩160年目の節目の年なのです。

「それがどうした?龍馬ファンだけが騒いでいるのでは?」と感じる方も中にはおられるでしょう。しかし、龍馬が160年前に「脱藩しない」という選択肢があったことを知れば、新たな事実が見えてきます。そして、脱藩という選択の背景に何があったのかを知れば、歴史の深掘り深堀りにつながります。

 龍馬脱藩はやはり日本史にとってのターニングポイントであり、日本の近代化への出発点だったはずです。五感を研ぎ澄まして、その背景を紐解いてみます。