一条房家

(中脇 聖:日本史史料研究会研究員)

土佐一条家はいつ創設されたか?

 筆者は、本サイトの既出記事で「貴族のイメージを覆す!戦国時代の「闘う」貴族、一条兼定の実像」と題し、ゲーム、漫画、小説などで描かれるフィクションとしての一条兼定を彼と同時代の状況を反映したと思われる史料を中心に見直した。幸いにも、多くの読者に好評を得ることができた。

 今回は、土佐一条家の初代当主である一条房家(1477〜1539年)について、その知られざる動向と実像を明らかにしてみたい。

 一般的に、土佐一条家の初代は房家の父・前関白一条教房と勘違いされているケースが多い。だが、そうではない。教房は、たしかに土佐一条家創設のきっかけを作った人物ではあるが、初代ではないのである。

 なぜなら、教房は摂関一条家と別に、土佐国(現在の高知県)に新しいイエ(家)を創設するつもりがなかったのだ。せっかく土佐国で儲けた待望の男子(長男の権大納言政房は悲運にも下向先の摂津国福原荘で殺害されていた)である房家を京の都に上洛させ、出家させることに決めていた。もし、教房が土佐一条家を創設していたのなら、後継者たる房家を出家させるなど、ありえないことだろう。

 のちに詳しく述べるが、土佐一条家が名実ともに創設されたのは、教房が薨去(三位以上の高位の貴族が死去すること)した後、紆余曲折を経て房家が土佐「在国」のまま、元服した明応3年(1494)、彼が18歳の時なのである(『大乗院寺社雑事記』明応三年三月廿七日条)。