一条兼定像

(中脇 聖:日本史史料研究会研究員)

戦国時代の貴族のイメージとは?

 群雄割拠の時代といわれる戦国時代(諸説あるが、おおよそ1455年の享徳の乱から1573年の足利義昭の京都追放まで時期をいう)は、雄々しい戦国武将の合戦譚が注目を浴びがちである。「天下一統」を目指したとされる甲斐国の武田晴信(徳栄軒信玄)・駿河国の今川義元などの有名な戦国大名たちが主役の時代が戦国時代であるとイメージされている読者が多いのではないだろうか。

 これら戦国時代を彩った主役の大名たちとは対照的な存在として、あまり注目を浴びていない存在が天皇(禁裏)に仕えていた貴族(公家)たちだろう。戦国時代に限らず彼ら貴族のイメージは、詩歌管弦や遊興に耽る弱々しい存在で、大名たちに蹂躙されるがままだったかのような先入観をお持ちの読者がおられるかもしれない。

 しかし、戦国時代にあって京の都から離れて家領荘園に下向し、在地支配を行い大名たちに立ち向かっていった貴族がいた。

 それが、貴族の最高位とされ、摂政・関白に任じられる家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の一つ、一条家の流れを汲む土佐一条家である。

土佐一条家のはじまりと一条兼定の虚像 

 土佐一条家は、前関白一条教房(一条兼良の嫡子)が応仁2年(1468)9月、疎開先の奈良・成就院から家領荘園のあった土佐国幡多荘(現在の高知県四万十市を中心とする一帯)に、応仁・文明の乱の戦火を逃れて下向し、教房が土佐で儲けた子息房家が明応3年(1494)3月、元服(『大乗院寺社雑事記』明応三年三月廿七日条)したことにはじまる(ちなみに房家は父教房の意向により、上洛の上、出家予定だった)。

 房家以降、房冬―房基―兼定と続き、土佐一条家は一時期、土佐半国を占める地域を領有するまでに成長を遂げたのである。ともすれば、土佐一条家は戦国大名として武家化したと考えられているが、そうではない。彼ら土佐一条家の当主たちは、いずれも従三位以上に叙任され、摂関一条家当主の猶子(兄弟や親族を自分の子とすること)となり「在国公家」として各地の大名や在地領主たちと激しい闘いを繰り広げていたのである。

 この土佐一条家の事実上の最後の当主が一条兼定(1543~1585年)である。兼定は、現代のゲーム、漫画、小説などで取り上げられることが多く、必ずといっていいほど、「暗愚」な人物として描かれている。とくに、土佐国を統一した大名長宗我部元親の引き立て役で「咬ませ犬」的な立ち位置で語られており、このイメージは、江戸時代後期に成立した軍記物語である『土左物語』に記される兼定の歪められた伝承に引きずられた結果なのである。

長宗我部元親像

『土左物語』など後世の軍記物は、長宗我部元親の事績を顕彰する目的で記されているため、元親に敵対する兼定は、必然的に滅ぼされなければならない「悪役」であり、滅ぼされても仕方のない「暗愚」として描かれている。それでは、兼定は本当に「暗愚」な人物だったのか?それを比較的に信用できる同時代の状況を反映している史料などを手がかりとしてみていきたい。