長宗我部元親

(中脇 聖:日本史史料研究会研究員)

長宗我部元親と土佐一条家の関係

 戦国時代(諸説あるが、おおよそ1455年の享徳の乱から1573年の足利義昭の京都追放までの時期をいう)、土佐国(現在の高知県)を統一し、四国全体をほぼ統一しかけた大名長宗我部元親については、高校の教科書などに記される「長宗我部元親百箇条」(長宗我部掟書)という分国法やゲーム(信長の野望・戦国BASARAなど)、司馬遼太郎さんの小説(『夏草の賦』)などで、名前だけはなんとなく憶えているという読者が多いのではないだろうか。

 この長宗我部元親が実は、土佐一条家(同家については、前回記事「貴族のイメージを覆す!戦国時代の「闘う」貴族、一条兼定の実像」を参照して下さい)に仕えていた「家臣」だったという学説がある(秋澤繁さんが提唱されたこの学説を「御所体制」論という)。戦国時代の末期、土佐一条家の当主だった一条兼定を土佐国から追い出し、四国各地の在地領主や大名たちを次々に降していった長宗我部元親が、もともと土佐一条家の「家臣」だったという学説は発表当時(2000年)、センセーショナルに受け止められ、現在でもおおむね信じられている学説といえる。

 それでは、長宗我部元親は本当に土佐一条家に仕えていた「家臣」だったのか? という謎を検証・解説していきたい。

「御所体制」とは何か?

 すでに紹介しているように、長宗我部元親が土佐一条家に仕えていた「家臣」だったのではないか?という学説を「御所体制」論という。それでは、この「御所体制」論って何だろうか? 少々、複雑で退屈かもしれないが、お付き合いいただきたい。この場合の「御所」とは、一条兼定の実子内政(ただまさ)と、内政の実子政親(ただし、政親という名前と存在は後世の史料にしか見られないので注意が必要。ここでは仮に使用する)の2人を指している。それぞれ、居住した城郭から「大津御所」・「久礼田御所」とされる。この2人を兼定までの土佐一条家と同じ家とみてよいかどうかは、慎重になるべきだろう。

久礼田城の主郭

 長宗我部元親は、一条内政の実父兼定が天正2年(1574)、豊後国(現在の大分県)に退去(事実上の追放)させると、自分の娘と内政を結婚させ、内政を自らの居城岡豊(おこう)城にほど近い大津城に住まわせた(元亀元年ヵ三月廿五日付岌州書状「石谷家文書」)。つまり、それまでの土佐一条家の領地の支配権を奪い取ったのである。といっても、これら一連の処理は、内政の猶父(養父)摂関一条家の当主内基の許可を得て行われていた。元親は娘婿となった内政を養育するという名目で、彼を政治的な傀儡として担ぎ上げたのだった。

大津から朝倉までの高知市街

 この内政を傀儡として利用することで、長宗我部家の敵対勢力が多く残る土佐一条家の旧領地支配を円滑に進め、摂関一条家との関係をパイプとして中央政局(京都を中心とする畿内の政局)に対処する体制が、「大津御所」体制だったという。

 付け加えると、こうした「大津御所」体制を逆に利用して、長宗我部家は土佐一条家の「家臣」だからと貶めることで、元親の勢いを削ごうとしたのが織田信長だったという主張もみられる。

 さらに、時代が下って羽柴(豊臣)秀吉が天下人になると、秀吉政権側が大名としての長宗我部家の地位や権限などの格付けを抑えつけるために、内政実子の政親を担ぎ上げ、あくまで長宗我部家は土佐一条家の「家臣」ということにした体制が「久礼田御所」体制だったというのである。ここからは、これらの「御所体制」論が妥当が否かを具体的にみていきたい。