第二次世界大戦後に、「鉄のカーテン」(チャーチル)でヨーロッパを二分し、東欧諸国を衛星国として自らの陣営に抱え込んだソ連は、一大帝国の盟主として君臨し、核大国としてアメリカと対峙した。しかし、1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国も共産党政権を転覆させて民主化への道を歩み始め、ワルシャワ機構軍も1991年7月には解散した。そして、同年12月にはソ連邦も解体してしまった。

 アメリカは、これを民主主義と資本主義の勝利として喧伝したが、ソ連邦を構成する15の共和国が独立し、1共和国となったロシアにとっては、まさに「敗戦」であった。大国の威信は傷つけられ、経済的にも困窮した。

ドイツの栄光を求めたヒトラー

 その状況は、第一次大戦で敗れ、領土を削減され、苛酷な賠償金を課され、再軍備も禁じられたドイツに似ている。賠償金の支払いは経済を圧迫し、ハイパーインフレは人々に塗炭の苦しみを味わわせた。その国民の不満に訴えて登場したのが、ナチスを率いるヒトラーであった。

 賠償金支払い拒否、領土回復、再軍備、失業解消をスローガンに、自由で民主的な選挙によって勢力を拡大し、遂に1933年1月に政権に就くのである。

 誰かに似ていないだろうか。そう、ロシア・ナショナリズムに訴え、屈辱の30年に終止符を打つべく、かつてのソ連帝国の再興を図ろうとしているプーチン大統領だ。プーチンの姿勢には、ドイツの栄光を再確立しようとしたヒトラーと相通じるものがある。

 ドイツ人は一つの国にまとまるべきだという大ドイツ主義を唱えるナチスは、国際連盟管理下にあった独仏国境のザール地方の帰属を決める住民投票に全力を挙げ、1935年1月の住民投票で「ドイツ帰属」90.8%を獲得し、ドイツへの帰還を実現させる。もともとドイツ人が住んでいた場所であり、この結果は当然なのであるが、平和裏に領土を回復したことを「ヒトラー外交の成果」として宣伝するのである。ドイツは、3月には徴兵制を再導入し、再軍備を決め、それから1年後の1936年3月には非武装地帯のラインラントへ進駐した。

 大ドイツ主義のヒトラーは、次の標的としてオーストリアを狙い、1938年3月に独墺合併(アンシュルス)を成し遂げる。ドイツと同様に、オーストリア・ハンガリーも第一次大戦の敗戦国であり、オーストリア国民も熱狂的にヒトラーを支持したのである。

 このアンシュルスに刺激されたのがチェコスロバキアのズデーテン地方に住むドイツ人で、ドイツへの帰還を求める運動を起こす。この問題の調停にチェンバレン英首相が乗り出し、9月にミュンヘンで、英(チェンバレン)独(ヒトラー)仏(ダラディエ)伊(ムッソリーニ)の首脳が集まって協議する。これが史上有名なミュンヘン会談で、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決まった。「ミュンヘンの宥和」である。

 ヒトラーの行動を正当化したのは、アメリカのウイルソン大統領が高らかに謳った「民族自決主義」である。

 ミュンヘン会談で世界平和は保たれたと思った矢先の1939年3月、ヒトラーはチェコスロバキアを併合し、その半年後には第二次世界大戦を始める。