ローマ帝国時代には、各植民都市に公共浴場が作られた。入浴様式は蒸し風呂のほかに、広い浴槽に身体が浸かる浴室もあった。

 ローマの大浴場は2000人以上が同時に入浴できたとされる。

 ローマの公共浴場は次第に大衆化し社交場や娯楽施設として発展。その浴場の脱衣所でギリシャなどから連れて来られた奴隷の女性が、客が脱いだ服の見張り役として働いていたが、時に娼婦を兼ねるなど公共浴場は売春の温床にもなった。

 ちなみに、その料金はワイン2~8杯と言われていた。女性のレベルやランクにより値段が上昇するのだろうか。

 ローマ式の入浴スタイルは初期キリスト教の厳格な信者からは退廃的で贅沢であり、当時のキリスト教では服を脱いで入浴することは倫理的に許されることではなく、異教徒と同じ浴槽に入ることも敬遠された。

 だが、そんなキリスト教も「夫婦間の生殖を目的とする性交のみをよしとする」といった建前はあったものの、売春にはかなり寛容であったらしい。 

 キリスト教には「麗しい淑女はみんなのものとして、そうでない女性はわが妻に」といったような言葉がある。そこには初期キリスト教の公共性という概念が見て取れる。

 皆が羨む女性は、特定の誰かのためにではなく、すべての人々に関係し、誰に対しても開かれているという意味が含まれる。まさに博愛の精神といえよう。

 異教に対する遠征軍を派遣した十字軍の時代、東方からハマームの慣習がヨーロッパにも伝わり公共浴場がつくられた。

 だが、男女が一緒に入浴すれば、覗きや猥褻な行為に走ろうとする規律を守らない者が後を絶たなかったため、教会はその不道徳を改めるべく教会の鐘によって男女の入浴時間を分けるなど介入した。