すると仙人は、雪も欺く肉感溢れる白いふくよかな女の脹脛を眼にしたばかりに、心が乱れ神通力を失い地上に落ちた。その後、仙人は洗濯女を妻にして凡人に戻ってしまったという。

 仙人だってそうなのだから、もし目前にギリシャ神話における女神アプロディーテーの像である本物のミロのビーナス像と、生身の美しい裸体の淑女が並んで立っているとすれば、周囲の目がなければ男性の視点を引きつけるのは、間違いなく生身の女性ではないだろうか。

 この場合、ミロのビーナス像に目を向けるのは芸術作品のもつエロティシズムの妖気と、洗練された官能美を鑑賞する高尚なことになるのだが、公衆の面前で生身の女性の裸体に目を奪われとしたならば、恥ずべき人間として顰蹙を買うはずである。

 一般にエロティシズムという言葉は、その性的衝動は至高の生へ行き着く人間の自己の存続を欲している限りない性的欲求の美的次元に焦点を当てた概念だけでなく、あらゆる表現手段を用いて感情をかき立てようとする試みにも用いられる。

 それに対し、エロとは、わいせつなこと、好色であること、いやらしいことを言ったり行動に移したりすれば、「エロおやじ」など低俗な人間としてなじられ、肩身の狭い思いをさせられているのが現状といえよう。

 とはいえ、女性の裸体に対し男性は弱い。

 だから、こっそりとのぞき見するという行為も、痴漢やセクハラと同じく犯罪行為でありながら、愚かでもの悲しいことに古くから男性の間で行われてきた。

 その歴史は、おそらく痴漢行為などよりもずっと古いに違いない。

限りない性的欲求の美的次元に焦点を当てたミロのビーナス像。エロティシズムの妖気と官能美が溢れている

なぜ、ヒトは全身を洗い浄めるのか

 私たちが入浴する習慣は、いまや欠くことのできないものだが、それは衛生的な理由ばかりではない。

 私たちが身体を清めたいという欲求は心身の爽快さに対する魅力だけでなく、人間の沐浴習性によるものといわれる。

 古代ユダヤ人にとって入浴は社会的な務めであり、モーセの律法に身体を清潔に保つことが含まれる。

 中央アジアでは紀元前1世紀頃から、高温に加熱した石に水をかけることで蒸気を発生させた蒸し風呂で入浴が行われていた。

 現在でもトルコやアゼルバイジャン、アラブ諸国・イランなどの中東全域、アフガニスタン、中央アジア諸国、東アジア諸国に広く見られる、この蒸し風呂が公衆浴場(ハンマーム)となり、広く親しまれる。

 この公衆浴場は、モスク(スーク)や神学校(マドラサ)、市場(バザール)と同様にイスラム都市に欠かせない社会文化施設となっている。

 ヒンドゥー教の多くは1日の始まりの朝に、あるいは仕事を終えた後の夕暮れ時に、寺院の貯水池や川で1時間ほど時間をかけて全身を洗い浄める沐浴を行う習慣がある。

 だが、沐浴で有名なインドのガンジス川でも一部地域では排せつ物のほか工場廃液も増加、川岸で火葬された遺体や遺灰も流され川の水が著しく汚染されているところもある。

 沐浴で有名なバラナシでは基準値の20倍もの大腸菌が検出されたという報告もある。

 しかし、現地の人は「心が清められる。濁っていても、これは聖水だ」と言って憚らないという。