4月13日、開成学園の野水勉校長をはじめ、OBを中心に構成されている「佐野鼎研究会」、「静岡県東部開成会」の役員・会員らが見守る中、開成学園の丹呉泰健理事長と富士市の小長井義正市長が協定書を交わしました。

 小長井市長はこう述べました。

「開成学園創立150周年という節目に、縁を深めることができたのは大変嬉しく、意義深い。『幕末の偉人佐野鼎が生まれたまち富士市』として、その魅力を発信していきたい」

 一方、学園側の丹呉理事長は、

「佐野鼎先生が富士山を見ながら育ったと思うと感慨深い。今回締結された協定に基づき、幅広い活動を行い、地方創成や人材育成のために少しでも役に立ちたい」

 と伝えたそうです。

 今回締結された協定書には、『富士市と開成学園が連携し、それぞれの資源や機能などの活用を図りながら幅広い分野で相互に協力し、人材の育成に寄与することを目的とする』、そして連携協力事項として『教育・文化、佐野鼎に関する研究を通じた関係者等との人的交流の推進』などが掲げられています。

生誕地の富士市で知名度が低かった佐野鼎

 実は、佐野鼎は私の母方の先祖(分家筋)に当たる人物です。そうした関係もあって、私自身も「佐野鼎研究会」に入れていただき、開成OBの方々にも多大なご協力を得ながら、2018年の12月、『開成をつくった男、佐野鼎』(講談社)という歴史小説をなんとか上梓することができたのです。

 佐野鼎は伝染病のコレラで亡くなったため、死後、身の回りの品や文献が焼かれてしまったらしく、本人が書き記したものはほとんど残されていませんでした。

 また、佐野鼎の出生地である富士市にも、目ぼしい史料はありませんでした。

 そうした状況下で取材調査を進めながら、少し残念に感じたのは、幕末にいち早く世界に目を向け、多くの業績を残した佐野鼎という人物の名が、彼の出身地である富士市でほとんど知られていないことでした。

 たしかに、佐野鼎は十代で江戸へ出て蘭学や砲術を学び、その後、加賀藩(現在の金沢)へ出仕しています。しかし、彼の優れた知能や人格形成の下地は、間違いなく雄大な富士山の裾野で過ごした少年時代に培われたものだと感じていたからです。