彼は幕末、幕府が派遣した「万延元年遣米使節団」(1860年)、「文久遣欧使節団」(1862年)の随員として、外国の蒸気船に乗って海を渡りました。まだ鎖国中だった当時、連続で2度の世界一周を体験した日本人はわずか6人で、佐野鼎はそのうちの1人だったのです。

 佐野鼎は遣米使節団の一員としてアメリカを訪れたとき、詳細な『訪米日記』を書き残していました。この日記を読むと、彼が明治に入ってから教育を志した原点が、アメリカで視察した教育制度にあったのだということがよくわかります。

 ところが、学校創立からわずか6年後、佐野鼎は、当時の流行病であるコレラにかかり、発症からわずか2日で息を引き取ってしまいます。

 校主を失った共立学校は、たちまち経営難に陥ってしまいました。

 そこへ佐野の後任としてやってきたのが、アメリカ暮らしの経験がある高橋是清(後の内閣総理大臣)でした。

 高橋を校長に迎えた共立学校は、「大学予備門」(東京大学への予備機関)への進学者のための寄宿制学校として、男子生徒を集めるようになったのです。

 校名が現在の「開成学園」に変更されたのは、明治28年のことです。御茶ノ水にあった校舎はその後、関東大震災によって焼失してしまったため、学校は西日暮里へと移転しました。しかし、校舎は焼けても、創立者である佐野鼎が掲げた「建学の精神」はその後も脈々と受け継がれ、日本屈指の名門校として今年で創立150周年を迎えることになったのです。

『幕末の偉人・佐野鼎が生まれたまち富士市』

 そんな記念すべき2021年、開成学園と富士市が、「連携協定」を締結することになりました。開成学園が自治体と協定を結ぶのはこれが初めてのことだそうですが、その理由は、佐野鼎の出身地が、駿河国富士郡水戸島(現在の静岡県富士市)であることに由来します。

静岡県富士市の佐野鼎の生誕地近くにある水戸島八幡神社。幼い頃の佐野もこの境内で遊んでいたかもしれない