このままでは埒が明かないと判断した私たちは、犯行現場の可能性が高い応接室の「ルミノール反応検査」を科学捜査研究所に依頼した。

 この検査は、血液の成分に反応する化学薬品「ルミノール」を使って血痕を特定するものだ。本検査と予備検査の2種類があり、鑑識係が現場で実施するのは主に予備検査のほうで、血液反応はその場ですぐにわかる。一方、人血か獣血の判別や血液型まで特定できる本検査になると、結果が出るまでに数日かかる。

 検査の結果は予想通り、応接室の床やソファー、壁などから男性の血液反応が認められた。私が注目したのは、壁にある凹凸だった。ためしに、木目の壁紙をめくりあげてみると、ちょうどこぶしぐらいの大きさのへこみが何カ所も見つかった。

 のちに聞いた社員の話では、社長は格闘技の有段者で、業績不振やミスした社員を応接室に呼びつけては、壁をサンドバック替わりに殴って社員を脅していたという。

 まさしく、現代でいえば「パワーハラスメント」そのものだ。社員の中には「このままではダメだ」と職場環境に疑問を感じていた者もいたはずだが、誰も社長の秘密を告白できなかった。それだけ社長の暴力に恐怖を感じていたのだろう。

先代への感謝

 関係者からの事情聴取を終えた私は、遺体の司法解剖が決まったことを遺族に伝えた。

「ご遺体を解剖することになりました。それまで署の霊安室に安置しますので、明日警察から連絡があるまで自宅で待機しておいてください。ご遺体にメスを入れられることに抵抗がおありかもしれません。しかし、解剖しなければ検案書が作成されず、埋葬許可もおりませんので、どうぞご理解ください」

 翌日、署内に警察署長指揮事件の「準捜査本部」が設置された。

 指揮事件には、本部長指揮事件と警察署長指揮事件のふたつがある。前者は府警本部主導の捜査本部、後者は本部の各担当課員の指導・支援を受けて署員が主導する準捜査本部となる。

 検視官が署に到着し、私が補助をすることになった。主な任務は、令状請求の疎明資料となる写真の撮影だ。

 男性が死亡した経緯も、聞き込み捜査によって判明している。

 本社2階の応接室で社長に業務報告をしていた際、仕事の不手際を責められ、社長から殴る蹴るの暴行を受けた男性は、ひどい全身打撲で意識を失い、その場に崩れ落ちた。そのことを知った幹部社員があわてて近くの病院に運び込んだが、男性の容体を見た医師が「事件性があり、当病院では手に負えない」と判断したため、転院することに。そして、転院先の総合病院に着いたときは、すでに心肺停止の状態になっており、前出の通り、男性の遺体には多数の外傷が見られたため、医師が所轄署に届け出ている。

 司法解剖の結果、男性の胸部や腹部からは殴られたような跡が複数見つかり、肋骨も数本折れていることが判明。直接の死因は「急性硬膜下血腫」と判断された。解剖後、指紋の採取中に、男性の顔を正面から眺める機会があった。あれだけの暴行を受けながら、男性の顔には社長に対する怒りや憎悪は浮かんでいない。どちらかといえば、穏やかな表情をしていた。

 ある社員によれば、生前の男性は「先代の社長には、拾っていただいた恩義がある」と口癖のように言っていたという。そんな男性の律儀で実直な人柄を知れば知るほど、私は心が痛んだ。もしかしたら、男性は自分が耐え忍ぶことで、先代が残した会社を守ろうとしたのかもしれない。

 男性に暴行を加えて死亡させた社長は、事件から半年余りが過ぎた同年11月、傷害致死の疑いで準捜査本部に逮捕された。

 この逮捕が転機となり、社員たちが暴力社長から解き放たれる。これまで捜査に非協力的だった社員も、手のひらを返すように真実を語り出した。社長から股間を蹴りあげられた社員の証言など、次々と余罪が発覚。社長は「誰も殴ったことがない」などと容疑を否認していたが、社員に全治6週間のケガをさせた傷害容疑で書類送検(示談成立で不起訴)されていた過去もあり、裁判では実刑判決が言い渡されている。