*写真はイメージ

大阪府警におよそ38年間勤務した筆者・村上和郎氏は、そのキャリアの多くを所轄署の鑑識係として送った。その間に扱った変死体は4000体ほど。「死」の原因は、事件、事故、自殺、病気、老衰など様々だが、それらは凄惨な死である場合がほとんど。人生の悲哀が凝縮された死と言ってもよい。過酷な最期を迎えることになった遺体と日々向き合いながら、村上氏は故人に対するリスペクトにも似た気持ちを覚えるようになった。いつしか同僚から「おくりびと」と呼ばれるようになったのも、その気持ちがあったからだろう。

その村上氏が著した『鑑識係の祈り――大阪府警「変死体」事件簿』(若葉文庫)より、一部を抜粋して紹介する。

(前回記事)ある日忽然と消えた、警察署の「厄介者」ばあさん
https://post.jbpress.ismedia.jp/articles/-/64161

巨大トンネル火災事故

「大阪本部! トンネル火災の現場近くに現着しました!」

 ——大阪本部、了解。火災の詳細と負傷者の有無が判明しだい状況を送れ。どうぞ。

「了解! これからトンネルの中に向かいます!」

 ——了解。受傷事故には十分注意せよ。以上、大阪本部。

 本部への発報(無線で報告)を手短に済ませると、私は捜査車両から飛び降りた。

 あたりは、もうもうと立ち込める黒煙のにおいが充満している。目と鼻の奥が少しひりひりする。ここまで大きな火災の現場は、はじめてだった。鑑識資器材を肩に担ぐと、私はトンネルの出入り口付近をめざして一目散に走り出す。

 火災現場となった生駒トンネルは、大阪府と奈良県を隔てる生駒山を4737メートルにわたって東西に貫き、近畿日本鉄道(近鉄)けいはんな線(旧・東大阪線)の新石切駅と生駒駅との間にある鉄道用のトンネルだ。

 トンネル内で火災事故が起きたのは、開通翌年の昭和62(1987)年9月21日、午後4時20分ごろ。大阪側から1949メートル地点のトンネル内で火の手が上がり、6両編成の生駒行き電車が立ち往生。約70人の乗客は車掌らの誘導で大阪側の出口まで徒歩で非難したが、煙を吸い込んだひとりが死亡、負傷者は50人以上を数えた。