平良兼に保護された将門の妻

 良兼とその一派は、関東中を巻き込んで大戦を繰り返した。だが、製鉄所を持つ将門は強かった。良兼たちは連敗を喫したのである。

 これで無名の将門は、絶大な勇名を獲得し、関東随一のカリスマとなっていく。将門に敗れた者たちが「あいつは大悪人です」と京都に訴えても、将門は太政大臣のお気に入りだった。これに加えて現地での評判が将門を助けた。私闘を行ったのはよくないが、情状酌量の余地があるとして、ほとんど何の罪にも問われなかったのである。

 将門が再び関東に帰ると、良兼が開戦準備をして待っていた。何の備えもできていない将門はここに初めての惨敗を味わう。しかも愛妻と子供たちまで、別経路の避難先で良兼の手勢に捕まえられた。船上でのことだった。

 実父に保護された将門の妻は、自殺を考えた。もはや生きるしかばねも同然だと絶望したのである。その様子を見かねた弟の平公雅と公連は、姉を逃すことにした。密かに脱出を助け、将門の隠れ家へ帰らせるよう手はずを整えたのだ。かくして彼女は将門のもとへ逃れ、喜び勇んだ将門は反撃の狼煙を挙げることにした。妻子が良兼のもとに保護されたままだったら、将門もおいそれと暴れられなかっただろう。

 大掛かりな反攻に追い詰められた良兼は、まともな合戦をする力を失ってしまい、やがて表舞台から姿を消していくことになる。

 ちなみに、将門の愛妻は、良兼の娘ということで、ドラマなどでは良子と名乗ることが多いけれど、この時代は親の文字を子供に譲る習慣がなく、むしろ兄弟間で同じ文字を使う例が多かったので、彼女の弟である公雅と公連が「公」字を共有していることから、「公子」と名乗っていた可能性がある。

将門最後のモテ期

 良兼を制し、関東の勇者から勝者となって、民衆から王者となることを期待された将門は、新皇を名乗ることにした。本当は朝廷から坂東上野将軍などの美称を賜り、幕府のような行政府を開きたかったと思うが、望み通りにいかず、荒れた関東を早く立て直したい気持ちから決意を固めたのだろう。このプロセスは『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)にわかりやすく書いたので、ここでは略する。

 兵たちが新皇のもとへ、珍しい捕虜を連れてきた。将門が殺害した源扶(たすく)の未亡人と、宿敵である従兄弟の平貞盛の夫人だった。将門はふたりが辱めを受けないよう勅命を発したが、間に合わなかった。貞盛夫人は衣服を剥ぎ取られた姿で、化粧も涙で乱れていた。

 これを哀れんだ新皇は「昔から帝王が示してきた古例に倣って、彼女たちは帰してやれ」と部下に命じて、一揃えの衣服を与えた上で、さらに勅歌を詠み伝えた。

「よそにても風の便に吾ぞ問ふ枝離れたる花の命を」

 その解釈には諸説あるが、海音寺潮五郎はこれを、貞盛(枝)から離れたあなた(花)の行く末が心配だとするものとする。続けて現れる貞盛夫人の返歌を見ると、首肯できる。

「よそにても花の匂の散り来れば我身わびしとおもほえぬかな」

 ほかのお方のもとで花開けるなら、わたくしも寂しくありません──と言うのである。あとからこの話を聞いた扶未亡人も、人を介して新皇に歌を送った。

「花散りし我身も成らず吹く風は心もあはきものにざりける」

 夫に先立たれて、乱暴までされたわたくしには、お情けの言葉もかけもらえないのでしょうか──と問いかけるような調子である。ふたりは、古来より皇帝は側室を多数持つもので、しかも自分たちの身内はもはや散々だが、新皇将門には輝かしい未来があると見た。そこでその保護下に置いてもらいたいと願い出たのである。貞盛にはこの夫人以外に愛人がいたし、扶未亡人もいまや独身なのだから、彼女たちも、ここで強い男に寵愛を求めるのは、別に問題のあることではないと踏んだのだろう。

 これまで彼女たちの夫と争い続け、罪悪感に苛まれていた将門も、疲れが抜ける思いがしただろう。予期しない歌のやりとりになったが、これで3人のわだかまりは解けたという。