歌川国芳「龍宮城 田原藤太秀郷に三種の土産を贈」(部分)

(乃至 政彦:歴史家)

藤原秀郷と俵藤太

 平将門を追討したのは、同世代の従兄弟・平貞盛と、不屈の古兵(ふるつわもの)藤原秀郷である。秀郷は異名の「俵藤太(たわらのとうた)(『今昔物語集』では「田原藤太秀郷」)」と呼ぶほうがイメージを喚起しやすいかもしれない。ただ残念ながら俵藤太というのは、あとになって作られたキャラクターであって、もとの秀郷と一致するところは何もない。それどころか共通点がどこにあるのかわからないほど別世界の人間だと言っていい(野口実『伝説の将軍藤原秀郷』)。では本当はどういう人物だったのか。これが何もわかっていないのだ。

下野の唐沢山城と秀郷

 藤原秀郷は下野国の人である。これまで『謙信越山』に繰り返し登場してもらっている佐野昌綱のご先祖さまで、昌綱が拠点とした唐沢山城を作った人とされている。しかし秀郷が唐沢山を作るというのは、どう考えてもありえない。

 今回は、唐沢山城と秀郷の関係から、伝説の勇者が生まれる仕組みを見ていこう。

 秀郷と将門の時代、彼らのような地域の豪族には、「大きな城を構える」という習慣自体がなかった。その証拠に、将門の合戦を無数に記す『将門記』を見ても、城を攻めたり、守ったりする描写は一つもない。まだ中世的な城という概念のない時代だったのである。

 武士の先駆である彼らは、「営所」という平地の拠点で、領地経営を行なっていた(木村茂光『平将門の乱を読み解く』によれば、公的または準公的な施設)。そこにあるのは浅い堀と低い土塁に囲まれた舎宅ぐらいなものだった。今の企業ビルや学校がそうであるように、兵糧庫と水源地を備えて、武者溜まりと馬出しを置き、さらに水堀や防壁という長期戦に耐えうる防御施設を幾重にも張り巡らせることはなかったのだ。

 当時は、豪族同士の抗争も、果たし状を送りつけ、約束した場所に互いが仲間たちを連れて集まり、そこで勝負をつけるというのがセオリーだった。だから、互いの本拠地を攻め落とし、その領土を占領するということ自体がなかった。昭和平成のヤクザ同士の抗争でも相手の人員を死傷させることが目的で、事務所を攻め落とすことを前提とする意識は共有されていなかったように、彼らは自分の縄張りにいる住民が攻撃される心配すらしていなかった。

 それを将門が変えた。将門は、最初期の戦いである「野本合戦」で、敵の指揮官と部下たちを射殺すると、その本拠地に押し寄せた。そして同日のうちに、指揮官の後ろ盾を襲撃した。ところがこの人物は、ほとんど抗戦することなく、あっさり簡単に打ち負かされた。

 その後、その親族が将門に本拠地を追われて山に逃げる一幕も『将門記』に記録されているが、戦国時代の武将が詰めの城へ逃れるのと違い、単なる野山に逃れただけで、もちろんその山には長期的防御の備えなど一切なく、将門側も山を囲んで、野宿する程度の簡素な攻め方しかしていない。

 中世武士なら、双方とも雨風をしのぐ即席の家屋ぐらい用意するところだが、勢い任せの攻撃と避難しかしていないのである。将門側も防衛側も、まだ攻城や籠城という考え方自体まったくしていなかったわけである。