明智光秀像(一部) 本徳寺蔵(Wikipediaより)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

 大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀。日本人なら知らない人はないほどに有名な、歴史上の人物である。にも関わらず、織田信長に仕える以前の、この人の前半生は謎につつまれている。

 越前にいたことがあるとか、足利義昭の足軽衆であったとか、細川藤孝の家臣であったとか・・・。さまざまな説があるが、どれも断片的な情報。そもそも、本当に美濃明智氏の一族なのかも、はっきりしない。

 要するに、どこの何者なのか、よくわからないのだ。ドラマの6月放送分までに描かれてきた光秀の前半生は、ほとんど創作に近い。ではなぜ、これほどの有名人の出自が不明なのであろうか?

なぜ、光秀の記録はないのか

 歴史上の出来事や人物について知る最大の手がかりは、紙に書かれた「史料」だ。その歴史史料の主なものに、文書(もんじょ)と記録がある。文書とは、わかりやすくいうと、差出人と受取人のはっきりしている書類や手紙のたぐい。記録とは差出人・受取人のない書き物のことで、日記などが該当する。                  

 中世・戦国時代の研究では、貴族や僧侶の日記がよく用いられる。現代人がつける日記やブログは、個人なことを書き綴るのが普通だが、当時の貴族・僧侶の日記は、業務日誌のようなものなので、客観的な事実や情報を書くのが基本だ。しかも業務日誌だから、家や寺ごとに大切に保管される傾向にある。

 戦国武将について書かれた記録の代表として、『信長公記(しんちょうこうき)』という本がある。これは、織田信長の右筆をしていた太田牛一(ぎゅういち)という人が、信長の死後に、主君を偲んで書き残した一代記のようなものだ。

『信長公記』 陽明文庫蔵(Wikipediaより)

 何せ、信長の秘書官が書いているわけだから、信憑性は高い。光秀も、信長に仕える頃から、『信長公記』の中にたびたび登場して、動向が追えるようになる。

 一方、文書は書類なので、たくさん作られはするが、用が済めば捨てられる。火事や戦乱で失われるものも多い。というより、現代に残っている文書は、当時作られたもののうち、ほんの一握りでしかない。

 ただし、文書の種類によって、残る確率の高いものと、低いものとがある。残る確率の高い文書とは、長期間大切に保管される性質の書類だ。現代のわれわれだって、たくさんの紙に囲まれて暮らしているが、そのほとんどは、用が済めば捨てますよね?

 たくさんある文書の中で大切に保管されるのは、大きなお金の支払い・受け取りや貸し借り、税金(=年貢)関係、土地や財産の権利にかかわるものだ。現代のわれわれも、このたぐいの書類は大切に取っておきますよね?

明智光秀が築城した丹波亀山城跡(京都府亀岡市)。江戸時代初頭に近世城郭として整備された。撮影/西股総生

 おわかりだろうか? 光秀の場合、信長に仕えるようになって領地をもらい、家臣をやしなう立場になる。つまり、領地の支配や年貢にかかわる立場になって、残される確率の高い文書に名前が登場するようになったのだ。

 浪人のような立場では、残される確率の高い文書にタッチしない。偉い貴族や僧侶とも交流がないから、史料にまとまって名前が残らなかった、というわけである。