斎藤道三像(一部)常在寺蔵(Wikipediaより)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

 現在、放送休止中の大河ドラマ『麒麟がくる』。これまで放送された前半を振り返って、もっとも魅力的なキャラは、衆目の一致するところ、本木雅弘さん演じる斎藤道三であったろう。筆者も、大河ドラマ史上もっとも戦国大名らしい戦国大名、として描かれていたように思う。

 その道三のキャラ付けで印象的だったのが、金にケチなところ。何かあるたびに費用の心配をし、京へ遣わした明智十兵衛が戻ってくると、余った旅費は返せと迫る。いや、道三だけではなく、このドラマに登場する戦国大名たちは、概して金の心配をしている。では、実際のところは、どうだったのだろう・・・。

戦の敗因はお金?

 1564年(桶狭間合戦から4年後)の関東でのこと。当時、伊豆・相模と武蔵の大半は北条氏康(うじやす)の勢力下に入っていたが、北武蔵の岩付(岩槻)城では、太田資正(すけまさ)という武将が、頑強に北条軍に抵抗していた。

 同じく、北条方と対立する安房の里見義弘(さとみよしひろ)は、太田資正を支援するため、国府台(こうのだい・現在の市川市)に進出し、岩付城に兵糧を送り込むこととした。そこで、支援用の兵粮米を商人から買い付けようとしたのだが、価格交渉がまとまらず、モタモタしている内に北条軍の主力が前進してきて、里見・太田連合軍は敗退してしまった。金の問題で勝機を逸してしまったのである。

甲府駅前にある武田信虎像(山梨県)

 1541年、甲斐の国主だった武田信虎は、駿河の今川義元を訪ねた。義元に嫁いでいた娘に会うためという名目だが、義元と外交的な話をするつもりであったろう。ところが、この間に、嫡男の武田晴信(信玄)が甲斐でクーデターを起こし、国境を封鎖して信虎追放を宣言してしまった。

 晴信は、裏で義元側と話をつけていて、追放された信虎は、そのまま駿河で預かることとなった。よく言えば食客、有り体に言うなら居候である。実はこのとき、義元から晴信に送られた督促状が残っている。信虎の滞在経費や女中の人件費は武田側でもつ約束なのだから、ちゃんと払ってくれ、というわけだ。

 当時の今川家は、駿河の経営が安定していて、首都である駿府の街も東日本随一といわれるほど繁栄していた。義元は、財力には余裕があったはずだ。でも、それはそれ、これはこれ、なのである。