(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
いまも朝鮮半島に残る倭城
日本全国を統一した秀吉は、中国大陸を征服する野望を抱いて1592年、朝鮮半島に兵を出します。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)と呼ばれる戦いです。海を渡った日本軍は、当初は快進撃を見せましたが、反撃されて次第に押し込まれるようになり、半島の南岸に城を築いて、かろうじて持ちこたえるばかりになりました。
このとき日本軍が築いた城は「倭城(わじょう)」と呼ばれて、いまも立派な石垣を残しています。無謀な侵略戦争は朝鮮半島に深い傷を残し、日本軍も多くの戦死者を出しましたが、厳しい実戦経験をへて、織豊系城郭はさらにブラッシュアップされることとなりました。
ところが、1598年に秀吉が没すると、豊臣政権はたちまち崩壊してしまいます。政権の幹部だった、徳川家康と石田三成の主導権争いがはじまり、ついに多くの武将が徳川方(東軍)、石田方(西軍)に分かれて、1600年に関ヶ原合戦で激突したのです。
合戦の結果、敗れた西軍方の武将たちは、あるいは命を落とし、あるいは領地を没収されました。没収された領地は、家康によって東軍方の武将たちに分け与えられます。こうして大きな権力を手にした家康は、ほどなく朝廷から征夷大将軍に任じられます。
とはいえ、秀吉の跡継ぎである秀頼が、まだ大坂城に残っていました。全国の大名たちは、次に起きるであろう徳川vs.豊臣の最終決戦に備えなくてはなりません。