翌日から、先生の私に対する接し方が変わり、無理に私を集団になじませようとはせず、私の様子を観察し、声かけを工夫してくれるようになった。すると、協調性のないはずの私が、集団行動を少しずつ取れるようになった。
それからしばらくして、小学校のマラソン大会。先生は私の母を見つけて駆け寄り、「お父さんは、心が二つも三つもある方ですね!」と、手放しでほめていた、と母は笑って話した。
二流を見下すことの弊害
集団行動が苦手で、協調性がなかったはずの私が、こんな人目につく文章を書くようになったのも不思議だが、それは父の言葉が先生の行動を変えたからに他ならない。また、父が先生に語ったというその内容は、私の職業観にも大きく影響したといえる。
一流とはなんだろう? 私にはよく分からない。二流、三流のどこが悪いのだろう、と私なんかは思う。
一流になりたい人は、「憎いあんちくしょうを二流だと見下ろしたい」という気持ちがあると思う。そうした悔しい思いをばねに、成長すべく努力するということは決して悪いことではない。それで能力を向上させることは、結果的に社会によい影響をもたらすからだ。
ただ、功成り名遂げてなお、自分を一流と自認し、他人を二流と見下す気分を維持するなら、話は別になってくる。人間は、見下されているかどうかを敏感に感じ取る生き物のようだ。もし見下されていると感じたら、「ええ、どうせ私は二流ですよ」とふてくされて当然だ。すると、その人は二流というペルソナ(仮面)を被るようになる。どうせ二流としか思われないなら、二流の仕事しかしないようにしよう、と、パフォーマンスを自ら制限してしまう。
これではもったいない。人の上に立つなら、部下のパフォーマンスを最大化したいところだ。ところが、自分を一流とみなしてご満悦になることを優先し、部下の気持ちを腐らせてしまうなら、全体としてはパフォーマンスが落ちてしまう。一流でありたい、一流としてほめられたい、という気持ちが、リーダーとして二流になってしまう、という皮肉な結果になってしまう。