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(篠原 信:農業研究者)

 部下なり、あるいは子どもなりを指導する立場にある人間が目指すべき目標は、「出藍(しゅつらん)」だろう。

 出藍とは、青が藍を原料にして作られる色素なのに、原料の藍よりもずっと青い、ということから、弟子が師匠を超えて優秀に育つことを意味する言葉だ。

 しかし「出藍」は、教育の力で可能なのか? それが長らく、私の疑問だった。

教育は師匠のコピーを作ることなのか?

 教育は、指導者の知識を弟子(部下、子ども)に伝える作業だ。だから、指導者が知らないことは弟子に教えられない。ということは、自分と同じコピーを作るのが精一杯ということになる。

 どれだけ高精細なコピー機でも、コピーを重ねると劣化していく。教育も、指導者の劣化コピーを作ることしかできないのだとしたら。私みたいな、能力が高いとはいえない指導者に当たった部下や学生、子ども達は不運だな、ということになる。

 では、弟子が指導者を超えるという、まれに見られる現象は、たまたま才能あふれた弟子に偶然出会っただけのことなのか。指導者が誰であろうと、天才は天才に育ち、師匠を超えるのか。だとしたら、教育はずいぶん無力な行為ではないか。

 しかし私は、「出藍」を諦めきれないでいた。弟子が師匠を超えた能力を獲得する。そんな指導法があるのではないか。それを、私のような凡才でも再現できる指導法はないものだろうか。それをずっと模索していた。

 ヒントと思われるものはあった。たとえば、モンゴメリ作『赤毛のアン』。アンは、養父母となるマシューとマリラのもとですくすく育ち、学校で一番の優等生に育った。マシューもマリラも、学があるとはいえない。一度もアンに勉強を教えるシーンは現れない。なのにアンは飛びぬけた優等生になった。

 その秘訣は、養父マシューにあるように感じた。マシューは口下手で人付き合いが苦手。まじめに働くことだけがとりえの男性。なのに、アンにはマシューの存在が不可欠で、マシューがいなければ、アンは優等生になり得なかっただろう、と私は信じることができた。けれど、なぜそう感じるのか、私はいまひとつ、自分でも言語化できなかった。