古山 手足を切断された子どもの話は、まさにこのことなんです。その場いっときの苦しみは解消されるかもしれないけれど、家族や親族、コミュニティも含めての命なのだから、殺すことは許されないとお釈迦様は考えたのです。だから、厳しく叱った。

宇野 お釈迦様、厳しいですよね。

古山 私も最初にこの話を読んだ時は、冷たい人だなあと思ったんですよ。けれど、深く考えていくと、苦しんでいる子を殺してしまうことは、自も他も傷つけないという教えからずれてしまうんです。不憫な子を殺した両親が傷つかないわけがないし、それを見ていた周りの人、助言をした僧も傷つく可能性がある。宗教者は、この子が生きている中で何が苦しくて何に困っているのかということを問いかけることこそが求められるはずなのです。そうすれば、傷つく人が少なくなる可能性がありますね。

古山健一氏(撮影:URARA)

宇野 たった1日でも身命、体と命が充実して生きられれば、100年の価値を超えます。「大学受験に失敗したらそこそこの人生しかないよ」とか、「定年退職したら生きる意味はあんまりないよ」と言われてしまう世の中で、この考え方は大きな助けになると思います。嬉しいとか楽しいだけではなく、その瞬間を「仏として生きられた」と思うこと。それは、今日の私はまんざらでもなかったな、ステキだったなと思えることでいいんです。過去と比べたり、足し引きするのではなくて、この一瞬を仏らしく生きられれば、納得ができるでしょう。

絶えず疑い、問い続けて生死のバリエーションを増やす

――人は、自分や他人に納得できない時に、不幸を感じてしまうと思います。病気になると、その症状や余命に納得できない、病人という社会的な立場に納得できないという状態になりますよね。

宇野 納得は生きる意味と直結します。それは、宗教が提示できるポイントだと思います。

(撮影:URARA)

――私たちは納得のしかたをたくさんは知りませんが、宗教者にそのポイントを教えてもらうことはできるのかもしれませんね。さきほど紹介していただいたガン患者さんは、「自分は何もできないのに娘に足をもんでもらって申し訳ない」としか考えられなかったけど、僧侶によってそれが「幸せな時間だった、ありがとう」という気持ちを引き出すことができたわけですよね。

宇野 曹洞宗の中にも道標となる教えはたくさんありますが、その中でも生きるとは何なのか、死ぬとはどういうことなのか、ということをまとめてわかりやすく示しているのが『修証義』です。多くの人に目を通していただき、そこに幸せに生きていけるヒントを見つけていただけたら嬉しいですね。

――最後にもう一度うかがわせてください。「安楽」とは何でしょうか?

宇野 安楽は、状態のこと。生も死もつながった1本の地平の上で、生きていくことも死ぬことも恐怖や苦しみでないこと。続いていくことが、安楽に生きて安楽に死ぬということです。

古山 赤ちゃんが生まれると「おめでとう」と言いますね。でも、誰かが亡くなる時にそうは言いません。私たちは長年の習慣や蓄積で、死が悪いもの、怖いものだと認識しています。だから、苦しい病が恐ろしかったり、逆転して死がすばらしいもの、生がおぞましいものと思ったりするのかもしれません。頭に染み付いている常識が絶対のものなのか、疑ってみることが大切だと思います。今まで思ってきたことを、問うてみましょう。

 医療が進み社会が変わっていく中で、生死についても絶えず疑い、問い続けること。そうすれば生死のバリエーションも、安楽のバリエーションも増えていくでしょうし、自分で決めつけること、他者から決めつけられることから解放されると思います。もしかしたら、生死とは、二択ではないのかもしれませんよね。