命は誰のものか

――しかし現代を生きる私たちは、病気などで余命を告げられたりすれば、たいていは「安静にして治療に専念しなさい」と言われます。そうなったとき、自分のやりたいこともできないようになってしまっていたならば、それは生きていると言えないのではないか、とも思うのです。そのときに安楽死という選択をすることも、仏教的にはノーなのでしょうか。

古山 命は誰のものでしょうか? 一般的には「自分のもの」と考えられていますよね。自分の命、人生、存在そのものを「私」とか「自分」と言っているけれど、では自分とは果たして何なのか。私の体、私の心は私のものだろうかと問い続けていくのが仏教で、そうではないということを発見すると、開放感や、自由になったという感覚を得るのが悟りだと言われます。

「私の命」という言い方は、命の外側に私が置かれている、分離されているような気がします。主と従、あるいは所有者とその持ち物のように。その生き方は重苦しく、人生のいろんな場面でストレスになりそうですね。私と命の関係を考えていくと、本当は「命の私」であって、私は命の一部にすぎないのではないでしょうか。「私」を「命の内側」に戻すことが、悟りではないかと思います。

曹洞宗総合研究センター現代教学研究部門副主任研究員 古山健一氏(撮影:URARA)

――釈迦が歩き続けたのは、自分がやるべきこととか、やりたいことをするためではなかったのでしょうか。

古山 逡巡はあったと思います。でも、このへんで死んでしまってもいいかなと考えるのは、「外側にはみ出した自分」です。修行による力もあったでしょうが、分離しようとする自分を内側に引き戻し、自戒しながら最後の一歩まで歩いておられたということでしょう。